すこし前に出ていた『タモリ論』を買って、読んでみました。それなりに楽しく読んでいました。特にひっかかることもなく、「あとがき」まで読み進めていたら、次のような文章が出てきました。

―いや、考え方を変えてみましょう。生まれたときから「神」だとしたら?
 福音書にあるように、マリアは処女懐胎してキリストを産みます。今さら言うまでもなく、通常ならありえない話です。要は、キリスト教信者が、自分かちの神が「おそそ」をしてできたことを認めたくないわけですが、これはキリスト教にかぎったものではありません。ブッダも母親のマヤ夫人の脇腹から生まれたことになっています。(樋口毅宏著新潮新書『タモリ論』187)

 しかしタモさんは、本当はこう言いたかったのではないでしょうか。
「うちの母親は、男と交わらないでオレを産んだんだよ」
 わかっています。僕が書いていることが、キリストやブッダの出生に匹敵させようとする、壮大な作り話であることは。
 だけど、神は僕の妄想を許してくれると思います。キリストや仏陀が信者たちの無理難題の願いを聞き入れてきたように。(『タモリ論』188)

 『タモリ論』の著者が仏教に造詣が深いかどうかは知りませんが、世間一般の人の認識はこの程度なのかということを感じました。
 この本の著者は、「ブッダも母親のマヤ夫人の脇腹から生まれた」と表現された意味を知らずに、著者の知識で理解しようとして、「仏陀が信者たちの無理難題の願いを聞き入れてきた」と、まったく的外れな結論を導き出しました。
 たとえば瀬戸内寂聴師も中村元師も、その他の仏教を学んでいる人も、その著作の中で的外れな解釈をしています。それを読んだ人が信じてしまったら、その的外れな解釈が広まっていきます。

 古代インドにおいて四姓という社会の大きな枠組を示したものがありました。ブラーフマナ(司祭者、婆羅門)、クシャトリヤ(王族、刹帝利)、ヴァイシヤ(庶民、吠舎、毘舎)、シュードラ(隷民、首陀羅)の四種姓です。
 ブラーフマナ(司祭者、婆羅門)は頭部から、クシャトリヤ(王族、刹帝利)は胸部から、ヴァイシヤ(庶民、吠舎、毘舎)は腹部から、シュードラ(隷民、首陀羅)は足部から生まれると表現されていたのです。
 お釈迦さまが右脇から生まれたと表現されているのは、お釈迦さまの生まれが王族であることを表しているのです。それ以外に悟りを開くことになることを暗示するものでも、特に優れた人であることを示すためでもありません。逆子だったとか、難産だったとか、子どもの抱き方を表すとか、いろいろな解釈がされていますが、それらは全部勝手な解釈です。お釈迦さまは王族に生まれたということを表しているのです。