ヨシモトブックス『えてこでもわかる笑い飯哲夫訳般若心経』

 この本の34ページに次のように書かれています。

 まず「舎利子」ですが、これも人の名前なんです。この読み方は「シャーリーシー」ですが、この人の本名は、「シャーリプトラ」です。ですから、「舎利」まではちゃんと音写できてる感じですね。でもその後の「プトラ」のところは「子」になってます。これはなんなんでしょうか。
 そこで、「子」について説明します。これは、中国における尊称です。尊称とは、偉い人に付ける名前です。孔子とか荘子とか老子とかみんなそうです。みんな偉いから、「子」を付けられているんです。貴乃花が、お兄ちゃんのことを「花田勝氏」と言ってましたが、この「氏」とは意味が違います。お兄ちゃんが中国でもっと偉かったら、貴乃花も「花田勝子」と言っていたと思われます。でも「シャーリプトラ子」なら、シャーリプトラを敬って呼んでいると分かるのですが、ここでは「シャーリ子」になっています。「プトラ」はどこにいったんでしょうか。しかし、そんなことは知りません。「プトラ」がないのはこういう理由だ、などと説明するのはどうでもいいんです。非常にめんどくさいんです。
 般若心経は、観自在菩薩がこのシャーリプトラに話している形で記述されています。ですからこの「舎利子」は、「シャーリプトラよ、」と呼びかけている感じです。(ヨシモトブックス『えてこでもわかる笑い飯哲夫訳般若心経』34)


 この「舎利子」の部分を読んで、これは笑いを取りに行っているのか、まじめに書いているのか、迷ってしまいました。笑いを取りに行っているのであれば、わざとまちがったことを書いて、まちがいがわかる人には笑ってもらおうということでしょうが、それにしてはあまりにも一般的ではないので、笑える人はほとんどいないだろうと思います。
 したがってこの部分は、まじめに書こうとしているのだと思いました。最近本屋でこの本があったので、奥付を見たら、「11刷」とありました。それまでだれもこのまちがいを指摘せず、あるいは指摘されていたかもしれませんが、そのままになっていたことになります。笑ってもらってナンボの笑い飯ではあっても、あまりに気の毒でなりません。
 ほかにいろいろ出ている『般若心経』に関する本を見るなり、『仏教辞典』で調べるなりすれば、ごく簡単にわかることですが、本人も、また編集者も、その一手間を惜しんでか、思い込みであることにも、まちがっていることにも気が付かないのか、そのまま放置されています。まちがっていることを知らずにこの本を手に取る読者が気の毒でなりません。
 『般若心経』に関する他の本を見ましたら、「舎利子」について「子」は尊敬の意味を表すのだと書いてありました。ある一定の範囲の人たちではそれが通説になっているのだということがわかりました。ですからそれについてどうこう言ってもしかたがないのでしょう。どこでそれがまちがいだと気が付くかだけですから。

 簡単に説明しますと、「舎利子」は本名ではありません。「シャーリーの息子」という意味です。「シャーリプトラ」は、「シャーリー」と「プトラ」を一つにしたことばです。「シャーリー」は女性名詞です。それが「プトラ」と結合して女性名詞でなくなったので、「シャーリ」となったのです。
 「シャーリプトラ」を訳すときに全部を音写すると「舎利弗」となり、一部を音写し、一部を中国語に訳すと「舎利子」となります。お経によって「舎利弗」と「舎利子」と出てきますが、同じ人を表しています。

 次に、同じく40ページに次のように述べています。

「色即是空」は、「物質的現象は、それがそのまま、実体のないものである」ですね。「空即是色」はまた、必要十分条件ですね。内角の和が百八十度であれば、三角形である、ですね。
 よってこの十九文字は、「シャーリプトラよ、物質的現象は実体のないことに他ならないのであり、実体がないということは、物質的現象に他ならない、物質的現象は、それがそのまま実体のないものであり、実体のないものは、それがそのまま物質的現象であるのだ」ですね。(ヨシモトブックス『えてこでもわかる笑い飯哲夫訳般若心経』40)

 「色」と「空」のたとえに「内角の和が百八十度」と「三角形」を持ってきています。どちらが「色」で、どちらが「空」なのでしょうか。またそのたとえは適切なのでしょうか。
 「三角形」の定義には「内角の和が百八十度」以外にどのようなものがあるのか、にわかにはわかりませんが、もし「内角の和が百八十度」以外になければ、「三角形」と「内角の和が百八十度」は同じ内容を表していて、どちらの表現でも他の事柄と取り違えることはあり得ません。つまり「三角形」といっても「内角の和が百八十度」といっても、それが何を表そうとしているのかがだれにでもわかるわけです。
 ところが、『般若心経』には「色即是空、空即是色」のすこし前に「五蘊皆空」とあります。「色」は「五蘊」の中の一つです。ですから「色」は「空」ですが、「色」以外の「受、想、行、識」も「空」なのです。
 「物質的現象は、それがそのまま実体のないものであり、実体のないものは、それがそのまま物質的現象であるのだ」というのは、よく言えば「ことば足らず」です。悪く言えば「まちがい」です。
 正しくは「物質的現象は、それがそのまま実体のないものであり、実体のないものは、物質的現象でもある」としなければなりません。なぜなら、すくなくとも実体のないものの中には、色を含む五蘊(色、受、想、行、識)が含まれているからです。