「今、いのちがあなたを生きている」がわかりません

伝えたいことがあるんだ


 何年か前、テレビで「伝えたいことがあるんだ」という歌が流れていました。
 それを聞いて、お釈迦さまのことを思いました。
 お釈迦さまは、菩提樹の下で悟りを開かれました。たいそうお喜びになり、その喜びにひたられて何日かが過ぎていきました。
 そのうち、お釈迦さまは、この喜びを他の人々にも伝えたいと思われました。
 しかしお釈迦さまは、悟りの意味を人々に伝えることの難しさから、絶望に陥られました。
 まず悟りの意味を伝えるには、あまりにも難しすぎて、どう表現していいかわからないという問題がありました。
 次に、たとえことばで表現できても、それを理解してくれる人は少ないだろうという思いがありました。
 そしていちばん問題なのは、お釈迦さまが悟られた内容を語っても、耳を傾けてくれる人々はいないだろうということでした。
 それらの難問に遭い、お釈迦さまは自分だけの楽しみとして自分一人の中へ閉じ込めておこうという思いが次第に強くなっていきました。
 インドにはいろいろな神さまがいます。その中に梵天という神さまがいます。梵天は、世界の創造主で、最高にして絶対の真理そのものであるとされています。
 お釈迦さまが説法をあきらめようとしておられるのを知った梵天は、お釈迦さまに説法をしてくれるようお願いするのです。
 世の中には頭のいい人もいる。ものわかりのいい人もいる。だから難しい悟りの内容であっても、わかる人が出てくるに違いないから、説法してほしいと再三にわたってお願いされました。
 最初は断っていたお釈迦さまも、慈悲の心を生じて説法されるようになりました。
 このことは「梵天勧請」という仏伝として伝えられています。
 梵天という神さまが実際にいるわけではありません。
 しかしなぜ梵天という神さまが登場してくるのでしょうか。
 梵天という神さまは、この世界の代表者なのです。生きとし生けるものの願いを背負ったものの代表者として説法をお願いしたのです。ということは、生きとし生けるものが説法を願ったという意味があるのです。
 私たちは毎日ことばを使って話をしています。それは他の人になにかを伝えるためです。
 しかし伝えたいことが相手に的確に伝わるわけではありません。特に相手に聞く気のないときは、なにも伝わらないことが多いものです。
 伝えたいことがあり、それを伝えようとするときには、伝えることの難しさを感じます。そしてそんなときは、「梵天勧請」を思い出します。もとよりお釈迦さまと比較しようなどとは思っていませんが、それでもお釈迦さまの御苦労の一端を垣間見ることができるように思います。

対機説法と八万四千の法門

 仏教には「八万四千の法門」があります。法門とは教えのことです。つまり八万四千の教えがあるということになります。
 お釈迦さまの悟りは一つです。それがどうして八万四千の法門と言われるのでしょうか。八万四千の悟りがあるわけではありません。
 対機説法ということばがあります。ここでいう機とは人という意味です。対機とは人に対してということです。それぞれの人間に対してその人のために説法することを対機説法といいます。
 人はそれぞれ縁が違います。同じ人はいません。ですから同じことばを聞いても、生い立ちやいま置かれている立場はもちろん、理解力や受け取り方もすべて違いますから、かならずしも話し手が意図しているようには伝わりません。人によっては正反対に受け取ることもよくあります。
 たとえば以前に「この山の名まえを教えてください」という題の文章を書いて、それを印刷し、有縁の人に読んでもらいました。詳しい内容についてはあとで出てきますので、そのときお読みいただいたらと思いますが、人によって興味のある部分が違いますので、読後の感想が違っていました。ある人は「送り火」について、ある人は「大文字山」について、ある人は調べた辞書の数の多さについて、そしてそれを新聞社に送付することについて等々でした。中には全然興味を示さない人もいました。
 お釈迦さまは、一人一人に対してその人が理解できるように、またもっとも適切であるように説法されたと伝えられています。それが対機説法であり、その数が八万四千と言われるのです。八万四千とは多いということを表します。一つ一つ数えてみたら八万四千に満たなかった。あるいは八万四千以上であった。だから八万四千というのはうそだというようなことではありません。
 たとえば後に中観思想や唯識思想が出てきますが、人によっては空思想のほうがとっつきやすいとか、唯識無境といわれてもどうも納得しにくいとか、またその反対だということが起こってきます。数多くの説法の中には自分に合ったものがあるのではないでしょうか。
 現在はいろいろなところでさまざまな人によって法話が行われています。それぞれ縁のあるところで法話を拝聴しますが、おおむね一方的な話で終わってしまうことが多いようです。たまたま自分の問題とぴったり合うということはそう多くはありません。質問をするにしても、なかなか的確な答えが返ってこないことのほうが多いようです。それが的確な答えであっても、自分に受け取るだけのものがなければ、的確な答えとはなりません。
 八万四千の法門の中には、それぞれの機に対して、それぞれの人を悟りに近づけるための教えですから、中には矛盾したと思われるようなものがあるかもしれません。
 お釈迦さまでも一つのことばですべての人に悟りの内容を伝えることはできなかったのだろうと受け取っています。ましてわれわれにおいては言うまでもありません。

速記について

 私は、縁あって京都市の議会事務局で議事録を作る仕事を十六年ほどしていました。議事録を作る仕事とは、会議で議員さんが話したものを文字にする仕事です。「速記」といえばおわかりいただけるかと思いますが、会議で速記をして、議事録を作成していました。実際にいわゆる速記を見たことのあるかたは少ないかと思います。
 ここですこし速記についてお話をしますと、速記とは発言を符号等を用いて書きとめ、文字にすることを言います。
 いまの録音機は、昔のものと比べると、非常に小さくて、高品質で、長時間録音できるものが出ています。ですから録音から直接文字にすることがひろく行われていますが、一部の速記者は符号を重視して、「符号を用いないものは速記ではない、速記とは認められない」と言っているようです。
 私は、三十年以上前から符号を用いた速記をしていません。
 では、どうしているかというと、録音を聞きながらパソコンに直接入力しています。そのほうが処理時間を短くすることができるからです。
 それはさておき、講演、研修会の講義、そのほかいろいろありますが、それらの話されたものを文字にしてどうするかといいますと、そのまま記録として保存しておくこともありますが、印刷して配ることが多いようです。
 たとえば本を作る場合、原稿を書く人もありますが、どこかでお話をしたものが本になることも多くあります。話されたものを本にするときの流れをおおざっぱに言いますと、まずある人が話をします。そしてその話を録音します。その録音を文字に直します。それを整理し、その話をした人が加筆訂正をしたのち、印刷、製本して、本になります。
 この場合、話されたことばがそのまま本になるわけではありません。話されたことばを文字にしても、そのままでは調った文章にはなっていないことが多くあります。要らないことばが入っていたり、同じことばが繰り返されたり、口癖で同じことばが不必要に入ったり、まちがった表現や、ことばの意味を取り違えて遣われていたりします。
 以前ある法話をテープ起こししていたとき、阿弥陀についての説明が出てきました。その人は、
 「阿弥陀とは「ア」と「ミタ」から成っています。アは否定で「無」という意味です。「ミタ」はサンスクリットで「量ること」という意味です。英語では「メートル」です。」
と説明していました。
 それを文字に直していて、「ちょっと待て」と思わずつぶやきました。私は、英語は得意ではありませんが、これがおかしいことはわかります。もちろんその部分、「英語ではメートルです」は削除しました。先生の話は正しいと頭から思い込んで聞いていると、「あ、そうなのか。阿弥陀のミタは英語ではメートルなのか」とやり過ごしてしまいます。このように、まったく違っているにもかかわらず、先生を信用することによるまちがいには気付きにくいものです。もしだれもが気づかずに印刷され、世間に出てしまうと、最終的には話した先生の責任になります。

辞書について
 辞書とは、何かわからないものや事柄を調べるときに利用します。その内容は正しいものとほとんどの人は思っているようです。「大文字」の項目を複数の辞書で調べた結果、辞書によってまちまちであることがわかりました。
 多くの人は、一つの辞書だけを利用していて、複数の辞書で調べることはあまりないでしょうが、ある項目を複数の辞書で調べてみるとおもしろいことが見つかることがあります。セカンドオピニオンということばがありますが、辞書についてもセカンドオピニオンが大切だと思いました。
 辞書について、「一つの辞書の中で矛盾する説明がなされていることがある。説明が曖昧で、どう理解すればよいのかわからない場合がある。多くの辞書が同じように説明していても、正しいとはかぎらない。出版社が同じでも辞書によって説明が違うものがある」等々が明らかになりました。
 ある本に『広辞苑』からの引用があったので、電子辞書の『広辞苑』第六版で調べてみると、引用文が違っていました。ほかの電子辞書で調べてみると、引用してあるとおりでした。
 そこで電子辞書の会社に問い合わせてみると、同じ第六版でも、刷によって説明が違うとのことでした。増刷するときに手直しをすることがあるようです。
 厳密であると思っていた辞書でもこのようなことがありました。それに比べるとわれわれの理解はどうなのでしょうか。
 また何十年も前のことですが、ある議員さんが「新聞に載っていた」ということで質問をしていました。それに対して答弁する理事者は「新聞に載っていることですから」と答えていました。議員と理事者では「新聞に載っていること」の受け取り方がまったく逆なのです。これは新聞が辞書に替わっても同じことです。あなたはどちらの側に立って考えますか。

ことばの変化

 文部科学省で調査をしているのでしょうか、ここ数年、いろいろなことばについて国民がどう理解しているか調査しているようです。その結果をテレビで報道していることがあります。あらためてもともとの意味あるいはほんとうの意味を知らされると、いままで思っていたことと違っていたということが多くあります。
 そんな例ですが、「流れに棹さす」ということばがあります。これは流れに乗るという意味ですが、多くの人は流れに逆らうことだと理解しています。そしてその意味で遣われることがあります。
 話を聞いていて、私の理解していることと違う意味で遣われることがあります。そのときは信頼できる辞書で調べます。どの辞書を信頼すればいいのか、多数決で決めてもいいのか、さきほどのことがありますので、非常に言いにくいのですが、「大文字山」に関するようなことはそう数多くあるものではありません。何冊かの辞書で調べればおおむね正解は出てくるだろうと思っています。そしてテープ起こしの原稿でまちがっているであろう部分は、正しくなるように直します。
 議事録の場合は、まちがいに気づいたら、発言者の議員に「これはまちがっていませんか」とお伺いを立てます。多くの場合、「直しておいて」という答えが返ってきますが、議員が「いや、これでいいのだ」という確信犯がいます。そう言われたら、こちらが勝手に直すわけにいきませんので、そのままにしておきます。

差別語

 何年か前、テープ起こしの依頼を受けて、テープを受け取りに行ったときのことです。担当者からテープを受け取って、帰ろうとしたら、「ちょっと待っていてください」と言われました。その担当者の上司が私に話があるというので、その上司の電話の終わるまで待っていました。なにを言われるのだろうと、すこし不安に思っていました。
 やがて電話が終わり、その上司のかたが来られました。手には数日前に仕上げたテープ起こしのコピーを持っておられます。そしてその中の一部分を示して、「ありがとうございました」と礼を言われました。そこには「(差別語!!)」という文字がありました。
 すこし説明をしますと、数日前のテープ起こしの中に、講師が「ことばは悪いですが」と断りを入れて、「ばかでもチョンでも」という発言をしたのです。この「チョン」というのは明らかな差別語です。ですから「ばかでもチョン(差別語!!)でも」と書いておいたのです。それを指して、礼を言われたのでした。なぜわざわざ礼を言われたのか、その理由はわかりません。
 講義や講演に差別語、蔑視語が出てくることがあります。講義や講演の内容が人権問題や差別についてであれば、それなりの配慮がされていますが、それ以外の場合、主催者や聴衆がそのことを指摘することはあまりないようです。今回の場合は、講師の話のみであとの部分はテープに入っていませんでした。ですから、講演が終わったあとに、そのことについての質問や主催者側からの断りがあったかどうかはわかりません。
 以前私の関係しているある任意団体で講演会を開催したことがあります。そのときの講師が差別語を発言されました。たまたま私が司会をしていましたので、講演が終わり、質問になったところで、その講演の中で差別語を使われたことについて質問したことがあります。
 差別語が使われた場合、主催者も含めて、聴衆にもその場で指摘する責任があると思います。ある差別発言事件で、講演中に差別発言があったのですが、主催者も聴衆もそのことを指摘しませんでした。そしてのちに差別発言はそのまま印刷物になって配布されました。差別発言をした人はもちろん、それを編集発行した人も、あとで責任を問われました。
 テープ起こしをしていると、発言者が差別語、蔑視語を使うことがあります。気がついたときは、たとえば「(注意!)」などのように書いておきます。担当者が差別語などに敏感な人であれば、そのような注意書きは要らないのですが、もし見落としなどがあるとあとで困ることになりますので、できるだけ注意書きを入れておきます。
 さきほどの例のように、「ことばは悪いですが」と断りを入れたからといって、差別語を使うことが許されるわけではありません。もし差別語だという認識があるのなら、そのことばを使わないはずだと思うのです。はっきりと差別語であり、使ってはいけないという認識がなかったのだろうと思われます。私もたまに人前で話をすることがあります。気をつけていないと、どこでどんなひどいことばを使うかわかりません。また自分の意思に反して、人を差別する結果にならないともかぎりません。

整文

 次にことばの順序が前後したりすることもあります。一つの文がだらだらと長く続くこともあります。
 特に注意しなければならないのは、主語と述語が整合しているかということです。整合していない文は、意味がわからなくなるから、伝えたいことが正しく伝わりません。話しことばの場合は、往々にして主語と述語が整合していないことがよくあります。それは話の途中に修飾語や挿入文が数多くあって、どれが主語で、それに対する述語がどれかがわからなくなることがあるからです。話を聞いていると意味が通じるように思うのですが、文字にして読むと、わけがわからなくて、どういう意味なのかが理解できなくなる場合がよくあります。
 それをわかる文にするのも編集者の仕事です。主語と述語を整理し、余分なものは省き、足らないことばは補います。もちろん重複したことばは削ります。そしてだらだらと長く続くものは、適当な長さにして、意味がわかりやすい文にします。
 わかりにくい文とはどういうものか、すこし例を挙げますと、「かれのように、私には積極性がない」とか「白いかごの中の小鳥」です。これは『仕事文の書き方』(高橋昭男著岩波新書)に出ている例です。
 「かれのように、私には積極性がない」は、「かれ」は積極性があるのかないのかが不明です。また「白いかごの中の小鳥」は、「白い」のは「かご」か「小鳥」か、はっきりしません。
 よくある例ですが、「きょうは雨降る天気ではない」というのがあります。文字で書けばはっきりしますが、声に出して言えばどちらにも取れます。きょうは雨が降るのか降らないのか、聞く人によって受け取り方が違ってきます。
 話されたものを文字にする担当の者は、編集者の仕事の前の部分を受け持ちます。ことばを聞いて、どういう文字でどのように表記するかを瞬時に判断して文字に直します。口癖や意味のないことばなどは省くこともあります。編集者がどういうように直すかがわかっていれば、それを考慮して文字に直すこともあります。

議事録とお経

 議事録を作成していて、お経と似ている点があることに気づきました。お経は、「如是我聞」ということばで始まります。すべてのお経がそうかと言われると、確かめたことがありませんので、そうだとは言えません。ただ『般若心経』には「如是我聞」はなかったように思います。ですから「如是我聞」ということばがないお経もあるのでしょう。
 しかし、私たちの正依の経典である『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』は「如是我聞」あるいは「我聞如是」で始まっています。「如是我聞」は、「このように私は聞きました」という意味です。お釈迦さまが直接文字で書かれた経典はありませんので、お釈迦さまの説法を聞いた弟子たちが、「このように私は聞きました」と言い伝えてきたのです。そこには人間を通して聞き取られた内容がお経になっているのです。人間を通して聞き取られたということが大事なのではないかと思っています。
 さて、議事録は議長が調整する権限と責任があります。そして議長が調整した議事録に何名かの議員、多くは二名ですが、署名することになっています。
 議長が調整すると言いましたが、議会事務局の職員は議長の仕事の補助をしています。そして議事録も職員が作成しています。それに議長が署名することによって議長が調整した議事録になります。議事録もお経と同じく、議長である人間を通して聞き取られたものと言えます。
 その議事録に議員が署名するのですが、ごくまれに署名を拒否する議員があります。拒否する理由はいろいろあるのでしょうが、議長を通して聞き取られた内容に対して責任が取れないということでしょうか。その場合、議事録は有効か無効かということが問題になりますが、議事録は有効だということになっています。
 お経も議事録も、人間を通して聞き取られたということに意味があるのです。

六成就

 お経には六成就と呼ばれるものがあります。信成就、聞成就、時成就、主成就、処成就、衆成就の六つです。これらは議事録でも欠かすことはできません。
 まず信成就は、お釈迦さまの説法を聞いた人が「如是」、私が聞いたことはかくのごとくですという経典に対する信順を示すことによる成就です。議長が議事録を調整するのですから、内容に対して疑義はあり得ません。
 聞成就は、「我聞」、聞くことによる成就です。議長がこのように聞いたという記録としての議事録ですから、当然のことです。
 時成就は、「一時」、説法の時を示すことによる成就です。議事録には開議日時が記録されています。お経には「一時」とありますが、議事録には年月日と時刻、分まで記録します。
 主成就は、「仏」、説法の主を示すことによる成就です。議会では主となるのは選挙で選ばれた議員です。
 処成就は、「在舎衛国」などのように、所説の道場を示すことによる成就です。説法の場所が決まっていませんので、どこで説法されたかを示しますが、議会は通常は役所の議場で会議をすることに決められています。例外的に議場以外の場所で行うことがありますが、その場合はそのことを議事録に明示します。
 衆成就は、「与大比丘衆」など、一座同衆の者を示すことによる成就です。議会に出席することのできる人は、議員といわゆる理事者です。当然名まえは記録されます。
 お経に六成就があることを学んだとき、議事録にも通じることだと思いました。

「今、いのちがあなたを生きている」について

 「今、いのちがあなたを生きている」は、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマです。このテーマに関していろいろな人がいろいろなところで話をしています。
 その場合、まず「今」について解釈し、次に「いのち」について説明をされるのでしょうが、単に「いのち」とだけありますので、どういう意味なのかはそれぞれの人によって受け止めが違ってきます。ある人は「阿弥陀のいのち」と受け取るでしょうし、またある人は「人間のいのち」と説明されるかもしれません。また「いのち」は象徴としての表現であり、「命」や「寿」、「生命」、「寿命」などを表しているのではないと言われるかもしれません。
 そこまでは人によっていろいろですが、いちばんわからないのが「あなたを」ではないでしょうか。この「あなたを」を説明するのにみなさん四苦八苦しておられるのではないかと思います。そこで私の感じたことをお話しします。
 まずこのテーマは、私にとっては理解できない文です。
 私は、文章を書くときや話をするときは、できるだけ易しいことばを遣うようにしようと思っています。難しいことばを遣うと、そのことばがなにを意味しているのかがよくわからないことがあり、話の内容が伝わらなくなります。
 たとえば新聞小説に限りませんが、新聞小説を読んでいると、初めて目にすることばに出合うことがあります。ルビが振ってあれば読み方はわかりますが、そうでない場合は、音読なのか、訓読なのか、また重箱読みか、湯桶読みか、どう読むのか迷う場合があります。辞書で調べればいいのですが、読み方がわからなければ調べることもできません。また辞書が手近にない場合はそのままにして先へ読み進めます。それが重要なことばであれば、意味がわからないままになり、全体がなにを言っているのかがわからなくなります。
 最近は電子辞書が普及しています。初めて聞くことばとか、意味がよくわからないことばが出てきても、すぐに調べることができます。そう重くないので、私はいつも持ち歩いています。
 このテーマに遣われていることば自体は、特に難しいものはありません。「今」にしても、「いのち」にしても、「あなた」にしても、「生きている」にしても、いつも、だれもがごく普通に遣うことばです。

言語明瞭、意味不明

 言語明瞭、意味不明ということばがあります。多くの人が知っている易しいことばを組み合わせたからといって、意味が明瞭であるとは限りません。
 たとえば「あの人は、義理人情に厚い人だ」ということをたまに聞くことがあります。何気なく聞いていると、「あ、そうなのか」で済んでしまいますが、私はこのことばがなにを言おうとしているのかがわかりません。こう言いますと、みなさんは「おかしなことを言う人だな」と思われるかもしれません。
 昔のことですが、御城碁といって、江戸幕府の恒例行事で、江戸城内で将軍の観覧に供した囲碁がありました。その囲碁の対戦をする棋士は、親の死に目にも会えないと言われていました。それは義理を重んじたからです。
 それと同じように、いまでも重要な役職に就いている人は、たとえ肉親が亡くなってもその役職を最優先にしています。
 以前役所に勤めていたとき、たとえば阪神淡路大震災のような震災が発生した場合、自宅が被災しても、役所に出勤するようにと教えられていました。それは公務員にとっては公務が最優先すべき事項だからです。公務は義理なのです。
 それに引き換え、身内のことは、義理ではなく、人情の部類に入ります。
 そこでこの義理と人情が同時に起こった場合、たとえば職務上重要な会議などが予定されていた日に、身内に不幸などがあった場合、「義理人情に厚い人」はどちらを優先させるのでしょうか。義理を重んじるのか、人情を優先させるのか。通常はより重要と思われるほうを優先させますが、重要度が同じであれば、選択に困ります。そういう意味で「義理人情に厚い人」という意味が私にはわからないのです。
 それと同じように、まさにこのテーマは、私にとって言語明瞭、意味不明な文です。
 たとえ理解できない文やことばであっても、何度も見たり聞いたりしていると、初めて見たり聞いたりしたときに感じた違和感が薄れていきます。そしてそれでいいように感じ、わかったつもりになるものです。
 たとえば「ら」抜きことばがありますが、最初は非常に違和感を覚えました。またすこし前まではマスコミでかなり話題になっていましたが、いまはほとんどといっていいほど話題にならなくなりました。私はいまでも違和感を覚えますが、世間では「ら」抜きことばがごく普通に遣われています。もちろん話を文字にするときは、「ら」を加えて表記します。テレビの字幕でもそのようにしていますが、たまに「ら」抜きのままになっているものがあります。そのうち完全に市民権を得るのだろうとあきらめています。
 また「故紙」ということばがあります。「故紙」と書かれているものに出合うことはほとんどありません。「古紙」と「故紙」では意味が違います。もし興味があれば、どう違うのか、ぜひ辞書でお調べいただければと思います。

『大きい字の法話集』を読んで

 『大きい字の法話集』を読んでみました。「本書は、この御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」を主題に、ラジオ放送『東本願寺の時間』において、二〇〇五年六月から二〇一一年十二月にかけて放送された法話を加筆・修正したものです」とあります。十二編の法話が載っていますが、すべてが「今、いのちがあなたを生きている」に言及しているわけではありません。何編かはそのことについて言及していますので、以下それらを見てみます。

 「わたしとあなた」の題で名畑格師が次のように述べています。

  真宗大谷派は、親鸞聖人の流れを汲む教団です。わたしもこの教団のご縁の深い寺院に生まれ育ちました。われわれの教団も社会の中にあるわけですから、親鸞聖人の教えを社会にわかりやすく伝えていくという使命があります。そこで、今回の御遠忌テーマとして「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を発信しました。
  わかりすい言葉です。「いま」「いのち」「あなた」「生きている」どれ一つ取っても難しい言葉はありません。しかし全体を見れば聞いたことのない文章です。聞いたことがない文章ですから、難しいのですが、その難しさは意味がよくとれないという難しさであり、もっといえばわたしたちの思考回路にはない言葉だからでしょう。仏教はときとして、わたしたちの思考に合わない言葉を生み出します。言葉で表現できない真理を言葉で表現しようとするとき、どうしてもこのようにしか表現できないという言葉が生まれます。
 世間の中に生きているわたしたちに世間を超えた真理を表現しようというのですから、思考に合わないのは当たり前です。

とあります。
 「われわれの教団も社会の中にあるわけですから、親鸞聖人の教えを社会にわかりやすく伝えていくという使命があります」とあります。このことにはまったく異論はありません。使命というよりもそうしていかなければならないと思っています。
 「そこで、今回の御遠忌テーマとして「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を発信しました」とありますので、この人がこのテーマを考えたのでしょうか。もしそうなら、直前に「わかりやすく伝えていく」と言っていることはどういうことだったのでしょうか。
 次にそれを説明するために、
 「わかりすい言葉です。「いま」「いのち」「あなた」「生きている」どれ一つ取っても難しい言葉はありません。しかし全体を見れば聞いたことのない文章です。聞いたことがない文章ですから、難しいのですが、その難しさは意味がよくとれないという難しさであり」と、このテーマは意味がわからないことを認めています。そしてその理由を「もっといえばわたしたちの思考回路にはない言葉だからでしょう。仏教はときとして、わたしたちの思考に合わない言葉を生み出します。言葉で表現できない真理を言葉で表現しようとするとき、どうしてもこのようにしか表現できないという言葉が生まれます」としています。
 そして「世間の中に生きているわたしたちに世間を超えた真理を表現しようというのですから、思考に合わないのは当たり前です」といっています。
 「親鸞聖人の教えを社会にわかりやすく伝えていくという使命が」あると言いながら「思考に合わないのは当たり前」の「聞いたことがない」「意味がよくとれないという難しさ」を内包している文章を発信しているのです。
 ということは、このテーマは、ほとんどの人にとっては「聞いたことがない」「思考に合わないのは当たり前」の「意味がよくとれない」文章だということになります。つまりほとんどの人には何も伝わらないことになります。

「思考に合わない」文例

 一般の人ととらえ方の違うこととしては、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」がよく例に挙げられます。一般の人は「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」(『歎異抄』第三条)と考えるのですが、真宗では逆に受け取るのです。
 また別の例として、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり」(『歎異抄』第九条)があります。
 「明法御坊の往生のこと、おどろきもうすべきにはあらねども、かえすがえすうれしうそうろう。鹿島・行方・奥郡、かようの往生ねがわせたまうひとびとの、みなの御よろこびにてそうろう。また、ひらつかの入道殿の御往生とききそうろうこそ、かえすがえす、もうすにかぎりなくおぼえそうらえ。めでたさ、もうしつくすべくもそうらわず」もよく言われる例です。
 だれかが往生をした。一般の人にとっては悲しむべきことなのに、「うれしい」とか「めでたい」と受け取るのは理解できないことに違いないでしょう。
 もう一つ、『正信偈』の中に「不断煩悩得涅槃」という一句があります。親鸞聖人以前は煩悩を断ずることによって涅槃が得られると考えられてきました。それが煩悩を断じなくても涅槃が得られると、まったく逆の発想になっているのです。
 これらの例を見て共通することは、日本語として理解することができる文だということです。これらの文章は読み手の考え方とは違うかもしれませんし、また読み手が納得するかどうかはわかりませんが、文法的にまちがった文章ではないのです。
 「世間の中に生きているわたしたちに世間を超えた真理を表現しようというのですから、思考に合わないのは当たり前です」を認めるとしても、それがただちに「聞いたことがない文章ですから、難しいのですが、その難しさは意味がよくとれないという難しさであり、もっといえばわたしたちの思考回路にはない言葉だからでしょう」につながるのでしょうか。

 また続いて、

 もし、このテーマをわたしたちの言葉で普通に表現するなら、「今、わたしがこのいのちを生きている」でしょう。これならよくわかります。当たり前だといいたくなります。
 「わたし」を「いのち」に替え、「いのち」を「あなた」に替えただけで、わからなくなるのはなぜでしょう。
 ある研修会で、この御遠忌テーマについてみんなで話し合いをもとうということになりました。あるご婦人が「このテーマはわたしたちの考えていることと主語が違う」と感想を話されました。そうですね、主語が「いのち」に替わっているのです。難しいと考えるのは主語が「わたし」ではないからです。(中略)
 この「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、わたしたちに主語の転換を求め、わたしたちが本当に何を欲しているのかを明らかにしています。

とあります。

 もし、このテーマをわたしたちの言葉で普通に表現するなら、「今、わたしがこのいのちを生きている」でしょう。これならよくわかります。当たり前だといいたくなります。
 「わたし」を「いのち」に替え、「いのち」を「あなた」に替えただけで、わからなくなるのはなぜでしょう。

とあります。
 「わたしたちの言葉で普通に表現するなら、「今、わたしがこのいのちを生きている」でしょう」と言っています。これは普通の表現なのでしょうか。人にもよるでしょうが、私は違和感を覚えます。
 続いて「「わたし」を「いのち」に替え、「いのち」を「あなた」に替えただけで、わからなくなるのはなぜでしょう」と言っています。「今、わたしがこのいのちを生きている」のほうは、「このいのち」は「わたし」のいのちだから「わたしが生きている」という意味になります。ところが「わたし」を「いのち」に替え、「いのち」を「あなた」に替えたときには、「いのち」と「あなた」が別々のもの、つまり「あなたのいのち」が「あなた」を生きているのではないと受け取るためにわからなくなるのです。「いのち」が「あなたのいのち」と考えると、「今、わたしがこのいのちを生きている」と意味が同じになります。

 「「今、いのちがあなたを生きている」というのは、主語が「わたし」でないからわからない」のでしょうか。たしかにこのテーマの主語は「いのち」です。「わたし」ではありません。
 だからわからないというのなら、このテーマの主語「いのち」を「わたし」に置き換えてみましょう。そうすると、
「今、わたしがあなたを生きている」
となります。この文章は何を言っているのかわかりますか。
 またいままでに出てきた文章を見てください。主語が「わたし」でないものがほとんどでした。主語が「わたし」でないから難しくて、理解できませんでしたか。
 主語が何であれ、難しいか難しくないかは、文章によります。また人によっても違ってきます。
 だから主語が「わたし」でないから難しいというのは、根拠がありません。

 「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは「あなた」と親しく呼びかけているのでしょう。わたしはあなたのそばにいます、どうかわたしの存在に気がついてください、と。自分さえも見捨てていくわたしたちに、親しい存在の声として愛情を運びながら、もう一度、孤独の中から救い出そうとしている。それが「あなたを」という目的語が使われている意味ではないでしょうか。

とあります。
 「「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは「あなた」と親しく呼びかけているのでしょう」とありますが、「あなた」と呼びかけるのであれば、「あなたよ、今、いのちが生きている」とすればはっきりするでしょう。
 「自分さえも見捨てていくわたしたちに、親しい存在の声として愛情を運びながら、もう一度、孤独の中から救い出そうとしている。それが「あなたを」という目的語が使われている意味ではないでしょうか」とありますが、このテーマの中の「「あなたを」という目的語」は日本語として不要なものです。

 「御遠忌テーマについて」という題で春秋賛師が次のように述べています。

 「今まさに、南無阿弥陀仏のいのちがあなたを包み、あなたのいのちとなって、生きていますよ」、という如来からの呼びかけの言葉であります。普通、「わたしが南無阿弥陀仏のいのちを生きる」という表現ですが、そうではなく、わたしがという意識の前に、既にして、「南無阿弥陀仏のいのちが、このわたしとなって生きている」ということであります。自己中心的な我執(がしゅう)一杯の人間と、一つになって、内から照らし出してくださる光りのはたらきを「いのち」と表現いたしました。

とあります。残念ながらこの文章も私には意味がわかりません。意味がわからないというのは、ことばが抽象的であって、具体的でないからです。それぞれのことばの定義がないので、どう受け取っていいのかわかりません。
 「「今まさに、南無阿弥陀仏のいのちがあなたを包み、あなたのいのちとなって、生きていますよ」、という如来からの呼びかけの言葉であります」とありますが、これだったら文法的に問題はありません。ただ「南無阿弥陀仏のいのち」の定義がはっきりすれば、あるいは理解できるかもしれません。
 そこで、なぜこのような表現にされなかったのかという疑問が残ります。
 しかし「わたしが南無阿弥陀仏のいのちを生きる」は、文法的に問題があり、私にはまったく理解不能です。
 「わたしがという意識の前に、既にして、「南無阿弥陀仏のいのちが、このわたしとなって生きている」ということであります」とありますが、この表現のしかたは昔からよく言われているものです。だからわからないほうに問題があると言われるかもしれませんが、なかなかすんなりと胸に収まりそうにありません。
 「いのち」の意味を、「自己中心的な我執一杯の人間と、一つになって、内から照らし出してくださる光のはたらきを「いのち」と表現いたしました」と言っているが、はたしてこのテーマ「今、いのちがあなたを生きている」を見て、「いのち」をそのように理解できる人がいるのだろうかと思います。私には無理なことです。また不特定多数の人々が「今、いのちがあなたを生きている」を見て、「自己中心的な我執一杯の人間と、一つになって、内から照らし出してくださる光のはたらきを「いのち」と表現」しているのだという考えに行き着くことができるのだろうかと思います。もし「いのち」にそういう意味が込められているということを理解しなければテーマがわかったことにならないのであれば、あまりにも無理な要求であると思いますが、いかがでしょうか。

 「いのち」がこのわたしと一つになって生きるということは、ご縁にまかせて、いのちという智慧が自由自在にわたしの身にはたらくということですね。
 「今という、そのとき、いのちが自由にはたらき、人間に柔軟心、つまり柔らかき、こころを生ぜしめる」。まさに、いのちを生きるということです。

 この文に出てくる「いのち」は何を指しているのでしょうか。最初に「いのち」となっているものが、次には「いのちという智慧」となっています。そして「いのちが人間に柔軟心を生ぜしめる」ことが「人間がいのちを生きる」ことだと言っているように受け取りましたが、ここではいつの間にかテーマの主語であった「いのち」が目的語になっています。「いのちを生きる」という文は、「あなたを生きる」と同じ理由で意味不明です。

 「人間といういのちの相(すがた)」と題して佐野明弘師は次のように書いています。

如来は本願をいのちとし、そのいのちが今、あなたを生きている。本願がそこにおいてはたらく大切ないのちの相、それが人間といういのちの相なのであります。

 この文では「いのち」は「本願」であり、「その「本願」が今、あなたを生きている」となります。それなら「今、本願があなたを生きている」とすべきではないでしょうか。そして後半の文に出てくる「いのち」は「相」がついていますが、前半の文の「いのち」と意味が違っているように思います。続いて出てくる文章で遣われていることばの表記が同じで意味が違っているのは、読み手を迷わせます。「いのち」の意味が変わったのなら、それを説明してほしいものです。

 以上、見てきましたが、ここでわかったことがあります。テーマの中で遣われている「いのち」について、それぞれの人がそれぞれに解釈していることです。テーマを作った人が「いのち」をどういう意味で遣っているかが明らかにされていないのではないでしょうか。それぞれの人がそれぞれに解釈することによって、なにを言っているかがますますわからなくなっていくのでしょう。百人の人が読めば、百とおりの解釈が出てくることでしょう。伝えたいことがあって、テーマが作られたとすれば、テーマで言いたいことはなになのでしょうか。

どこが、どうわからないのか

 そこで「今、いのちがあなたを生きている」のどこが、どうわからないのかを考えてみます。
 ことばに分解して、それぞれ『広辞苑』第六版で確認してみました。

  「今」《名》
   ①過去と未来との境である瞬間。現在。
   ②現在を含んだ、ある時間・期間。
   ③現に話をしているこの局面(で)。
   ④①と見なせるほど近い過去または未来。
   ⑤(「―に」の形で)そう遠くない未来。将来。そのうち。
   ⑥(今度あらたに加わるの意で)新しいこと。また、そのもの。
   ⑦(現在におけるの意で、現在の人を昔の人になぞらえるのに使う)現代の。当世の。
  《副》
   ①ここで更に。その上に。もう。
  「いのち」
  ①生物の生きてゆく原動力。生命力。
  ②寿命。
  ③一生。生涯。
  ④もっとも大切なもの。命ほどに大切に思うもの。真髄。
  「あなた」《代》
  ①第三者を敬って指す語。あのかた。
  ②近世以後、目上の同輩である相手を敬って指す語。
  ③夫婦間で妻が夫を呼ぶ語。
  「生きる」《自上一》
  ①生物が、生命を保つ。生存する。
  ②生計をたてる。生活をいとなむ。また、生命を託する。
  ③生命あるもののように作用する。
   ア 効力を持つ。持ち味・本領を発揮する。
   イ 生気があふれる。
  ④よみがえる。復活する。
  「いる」
   動詞の連用形、またはそれに助詞「て」(撥音を受ける時は「で」)の付いたものなどに接続して、動作の継続や、動作・事象の変化した状態が存続している意を表す。…し続ける。ずっと…する。

とありました。
 そこで、試しに「今」は「現在」、「いのち」は「生命力」、「あなた」は「あのかた」、「生きる」は「生存する」、「いる」は「し続ける」として言い換えてみると、「現在、生命力があのかたを生存し続ける」となりますが、これでもわからないのは同じですし、かなりおかしな感じの文になっています。

「生きる」について

 「生きる」に《自上一》が付いていましたが、これは自動詞で上一段活用の動詞だという意味です。
 自動詞を『広辞苑』で調べてみますと、次のような説明があります。

  自動詞
   他に作用を及ぼす意味を持たない動詞。目的語がなくても意味が完結する。 「走る」や「咲く」の類。

とあります。
 ついでですから、「他動詞」も調べてみますと、

  他動詞
   ある客体に作用を及ぼす意味をもつ動詞。目的語がないと意味が完結しない。日本語では、目的語として多く助詞「を」を添えて表す。「本を読む」の「読む」の類。

とあります。
 「今、いのちがあなたを生きている」の中の「あなたを」は助詞「を」が付いていますから、目的語です。ところが「生きている」の「生きる」は、自動詞ですから、目的語がなくても意味が完結する動詞です。また目的語があるとかえって意味がわからなくなる動詞だといえます。
 長い間目や耳にしていることもあって、「今、いのちがあなたを生きている」はそのままでおかしくないと思っているかたもあると思います。
 ここで動詞を「生きている」から別のものに置き換えてみるとどう感じられるでしょうか。もちろん置き換える動詞は自動詞です。たとえば「走る」や「咲く」でもいいのですが、「いのち」が主語ですので、「生きる」の反対語の「死ぬ」に置き換えてみると、「今、いのちがあなたを死んでいる」になります。これは初めて聞くことばですから、慣れはありません。たぶん多くのかたはおかしいと思うに違いありません。
 「今、いのちがあなたを生きている」から「あなたを」を削除すると、「今、いのちが生きている」となります。削除しないときよりすこしすっきりした文になります。このほうが「あなたを」が入っている文よりは意味がわかるように思われるのではないでしょうか。
 しかし、「いのちが生きている」という文をよく考えてみると、なにかおかしくはないでしょうか。
 たとえば「死んだいのち」があるのかを考えると、死んでいればいのちとは言えないでしょう。いのちは生きていることと切り離せないのではないでしょうか。ですから、生きていなければいのちとは言えません。とすれば、わざわざ「いのちが生きている」という必要はありません。いのちと言っただけで生きていることは明らかにわかることなのです。
 重複したことばは、省くことができます。そうすれば多くの場合すっきりした文になります。「今、いのちが生きている」から「いのちが」を取ると、「今、生きている」となります。
 「生きている」の「いる」について、さきほど見たように、「動作の継続や、動作・事象の変化した状態が存続している意を表す」とありました。「生きている」とは生きることが続いている状態を表しているのです。その状態は「いま」であり、現在続いているのです。
 「今、生きている」の「今」と「生きている」とは意味が重複しています。「生きている」だけで「今」が含まれていますから、「今」を省きますと、「生きている」になります。
 「今、いのちがあなたを生きている」は、私流に整理すると、「生きている」だけになりました。あるいは「生きている」しか残らなかったと言うべきでしょうか。

「今、いのちがあなたを生きている」で注目すべきことば

 私たちは、なにかが気になっていると自然とそのことを口にしたり、態度に出したりします。またこういうような法話などの間に気になっていることばが幾度となく出てくるものです。
 そこで「今、いのちがあなたを生きている」でなにが言いたいことなのか、気になっていることばなのかを考えてみますと、まず「あなた」です。必要でないのに入っているということは、注意を引きたいからでしょう。
 次は「いのち」です。これも「生きている」で十分に意味を表しています。
 「今」も気になっているようです。「生きている」ということは、現在生きることが続いているという意味ですから、「今」以外にはあり得ません。それにもかかわらず「今」が入っているということは、気になっていることばなのでしょう。
 そしてもちろん「生きている」も言いたいことの一つでしょう。
 こう見てくると、「今」「いのち」「あなた」「生きている」が言いたいことであり、気になっていることばではないかと受け止めることができるでしょう。
 そこで、それぞれについてすこし考えてみます。

「今」について
 まず最初は「今」です。私たちは「今」しか経験することができません。これから先の未来は、頭の中で考えているだけで、経験するのは未来が「今」になったときです。また「今」の経験は、一瞬後には過去になります。記憶には残りますが、それはもう「今」ではありません。
 「三帰依文」の最初に「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」とありますが、ここでは「今」が強調されています。
 この世に生命を与えられたものは数限りなくあるが、人間として生まれることは難しいことである。私は、ほかでもなく人間として「今」生きている。そして仏法を聞く御縁を「今」いただいている。人間として生きていることも、そして仏法を聞く御縁も、よくよく考えてみれば、たいへんあることが難しいことである。そのあることが難しいこの私が、いまこの世において悟りを得なければ、いつの世において悟りを得るのかという意味でしょう。
 「三帰依文」に「今生において」とあります。すぐあとに「いずれの生においてか」とあります。
 お釈迦さまの時代には輪廻転生が信じられていました。この世のいのちが終われば、この世で行ってきた業の報いによって六道のいずれかに生まれ変わり、輪廻を繰り返すと信じられていました。その六道輪廻の輪から抜け出すことを解脱といいます。修行者はその解脱を目指していろいろな修行をしていました。お釈迦さまも六道輪廻からの解脱を目指して修行をしていました。そして縁起の法を悟られ、仏陀となりました。
 縁起の法とは、簡単に言いますと、すべては条件、状況によって成り立っているということです。そしてその条件、状況が変われば、いままであったものは成立しなくなります。そのことから無我が導き出されます。我とは、六道を輪廻する主体のことです。よく遣われていることばで言えば、霊魂です。私たちの中に霊魂があると信じられていました。そして私たちが死ぬと、肉体はなくなりますが、霊魂が残り、その霊魂が六道の一つの道、境界に生まれると考えられていました。すべては縁起、すなわち条件、状況によって成り立っているのです。霊魂も例外ではありません。条件、状況が変われば、いままで存在していた霊魂も霊魂でなくなります。ですから、永遠不滅の霊魂、縁起の法に縛られない霊魂といわれるものはないということです。六道輪廻の主体である霊魂がないということですから、生まれ変わり死に変わりして六道を輪廻することもないということになります。つまり輪廻から解脱したのです。
 お釈迦さまが六道輪廻を否定しましたが、いつの間にか仏教に六道輪廻が取り込まれてしまいました。そしていまでも説かれています。生まれ変わり死に変わりする輪廻が否定されていますので、その六道輪廻は、この世でのこととして説かれています。時々の人間の状態を六道になぞらえて説明されます。たとえば得意満面のときは世間で有頂天とよく言いますが、仏教では有頂天という天があります。ですから天の状態であり、他人と争っているときは修羅の状態であり、飢餓状態のときは餓鬼道にあるというように説明されます。いじめに遭っているときは、居場所がなく、他人と意思の疏通がない状態であり、まさにそれは地獄の苦しみそのものでしょう。条件、状況によって六道といわれる状態になるというのでしょう。
 さて、三帰依文の「今生において」ですが、「いま私が生きているこの世において」という意味だと私は受け取っています。そしてそう受け取ると、「いずれの生においてか」は「今生以外の六道のうちのいずれかの生において」という意味になります。仏教では六道輪廻が否定されていますので、六道のいずれかに生まれ変わることはありません。ですから、今生、いま私が生きているこの世においてこの私が極楽浄土に往生する確信を得なければ、いつその確信を得るのでしょうか。私たちは、「今」以外の「いつ」、「なに」をするのでしょう。またなにができるのでしょう。私たちが生きているうえでは、「今」しかなく、その「今」が大切なのではないでしょうか。「今」が最初に置かれているのは、そういうことが強調されているように思います。

いのち
 「いのち」ということばについてすこし考えてみます。日本語では「いのち」をもののように表現していることばが多くあります。
 たとえば、「いのちを落とす」、「いのちを拾う」、「いのちを捨てる」、「いのちのやり取り」、「いのちをもらう」などです。
 私たちがことばを遣って物事を考えるとき、ことばで表された内容を「もの」と考えてしまうようになっています。いのちを「もの」としてとらえると、考えをめぐらしたり、他人とコミュニケーションを取るのにたいそう便利です。ですからついついあたかもそこにものが存在するかのように「いのち」を扱ってしまいがちです。
 もちろん「いのち」はものではありませんから、いのちを落とせばそれまでです。もし「いのち」がものであれば、いのちを落としても、拾うことができますし、また「いのち」をもらったら、保存しておくことも可能でしょう。そして自分の「いのち」が尽きたときには、その保存しておいた「いのち」を使うこともできるのでしょう。しかし、そんな「いのち」はどこにもありません。
 いのちはけっして「もの」のように取り出したり、捨てたり、やったり、取ったりできるものではないのです。

「いのちは、だれのものか」
 「いのち」を「もの」のように考えることに慣れてしまっている私たちは、私の中に「いのち」があると考えます。そしてその「もの」である「いのち」には所有者があると考えるようになります。そこから「いのちは、だれのものか」という問いが出てきます。そして「あなたのいのち」、「私のいのち」という考え方が出てくるのです。それは、やがて「あなたのいのちは、あなただけのものか」とか「私のいのちは私が自由にしていいのだ」という議論に発展していきます。「いのち」はものではありませんから、「だれのもの」とはいえないのではないかと思います。

速記はどこにあるのか

 さきほど速記についてすこしお話しました。もうすこし速記について考えてみます。
 みなさんは速記というとどういうことを想像されるでしょうか。「速記を見たことがありますか」とお尋ねすると、「テレビで見た」とおっしゃるかたがあると思います。私が議会事務局で議事録の事務をしていたとき、市議会のいわゆる本会議のテレビ中継が始まりました。生中継ですので、私の映っているテレビを私が見ることはできませんでした。市議会の中継はいまでもときどきやっていますが、それを見ることはほとんどありません。
 いわゆる本会議は、議員が演壇で質疑、質問をし、理事者が答弁をすることが多いので、一人の人を長時間映し続けていることになります。テレビ画面としては変化のないものとなります。そこで議場内のあちこちを映すことになります。演壇の前に何人かの職員が座って、そしてなにか書いているのを御覧になったことがあると思いますが、そこは速記者席です。実はそこに私も座っていたのです。速記者席では速記者が速記をしているのです。
 「速記」ということばをたくさん出しましたが、「演壇の前の席で職員が速記法で議事録作成事務の一部を行っている」とでもいえば、仏教の論理学的に正しい言い方になるでしょうか。
 一般にはそのテレビ画面を見て、あれが速記だと言います。それはそれでいいのですが、厳密にいえばあれは速記の中の一部分にすぎません。
 では、速記とはどういうものかを説明します。速記とは発言を符号等を用いて書きとめ、文字にすることだと言いました。「発言」には生のものもありますし、録音されたものも含みます。
 符号等と言いましたが、速記に用いる符号を御覧になったことがあるでしょうか。
 速記の方式は数多くありますので、すべての速記者が同じ符号を使っているわけではありません。
 また速記は紙と鉛筆やボールペンなどの筆記具を使って書く方法とソクタイプというタイプライターやパソコンを使うやり方があります。ですから符号等と表現したわけです。
 発言を符号等を用いて書きとめたあと、それを文字にします。ワープロが出てくるまでは、原稿用紙に鉛筆で書いていました。そののち日本語タイプライターを使うようになりました。ワープロが出て、数年でワープロは廃れました。いまではパソコンで文字を書く時代になりましたので、パソコンを使っています。
 発言から文字にするまでの流れを速記者がかかわった場合を速記といいます。ですから、その一連の作業にはかなりの時間がかかります。速記を見るということは、その一連の作業のすべてを見ることが必要です。速記者、速記符号、符号が書かれた紙、発言を文字に直して書かれた原稿用紙、これらのどれを取ってもあくまでも部分であり、全体ではありません。
 速記について、作業の流れはあっても、速記そのものがどこかに存在するわけではありません。それぞれの条件が集まって、それが互いに作用し合って速記というはたらきが出てくるのです。ですから速記はものではなく、速記と名づけられたはたらきのことです。これはまさに縁起そのものです。

いのちとは「はたらき」

 いのちも同じことです。いのちがあって、私が生きているのではない。私が生きていることが「いのちがある」ことです。いのちというものは、私の中にも、あなたの中にも、すべての生きているものの中にも、どこを探しても見つかりません。
 なぜなのでしょうか。それは、生きていることをいのちということばで表現したからです。いのちとは、ものではなく、はたらき、作用なのです。

「あなた」と「いのち」との関係

 「今、いのちがあなたを生きている」の「いのち」と「あなた」の関係について考えてみます。
 たとえばこのテーマが出てきたときに、これを読んだ人は、たぶん「いのち」と「あなた」は別の存在、直接には関係のないものだと受け取るのではないでしょうか。「あなた」は、「①第三者を敬って指す語。あのかた」とあったように、「いのち」から見て第三者、つまり他人であります。
 またこのテーマは、その中に出てくる「あなた」というのは読んだ人のことであると受け取ることを期待して書かれていると思われます。もしそうでなければ、読んだ人に関係のない、単なる文で終わります。それでは、なんのためにこの文が作られたのかがわからなくなります。
 「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、「生きている」が自動詞である以上、「あなたを」という目的語を必要としないものです。このテーマの中に必要としない「あなたを」があることは、このテーマの意味をかわらなくさせている原因であると言えます。
 このテーマでは単に「いのち」とだけあって、「あなたのいのち」とは書いてありません。書いていないということは、「あなたのいのち」ではないということでしょう。
 あるいは書いていないということは、「あなたのいのち」をも含んでいるという主張をされるかもしれません。もしそうなら、なぜ「いのち」をそのように限定しないのでしょう。また「あなたのいのち」を含んでいるということであれば、それ以外も含んでいるということになります。

「あなたを」について

 「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、「生きている」が自動詞であるのに、「あなたを」という目的語が入っています。多くの人は、「今、いのちがあなたを生きている」はまちがいなく正しい日本語だと思い、それを理解しようとし、説明しようとしてきました。
 その結果、「あなたを」を「あなたとして」とか「あなたの中に」とか「あなたとなって」と解釈して説明しようとしています。また「いのち」と「あなた」を入れ換えて、「今、あなたがいのちを生きている」として理解する人もいます。
 このテーマを作った人の意図がどうなのかわかりませんが、もし「あなたを」を違った形で説明するのなら、元の「あなたを」をなぜ換えないのかという疑問が起こります。
 また述語の「生きている」のままではこのテーマが理解できないため、「生かしている」のように他動詞にして説明する人もあります。それならなぜ最初からそのようにしなかったのでしょうか。
 私は、このテーマは「あなたを」や「生きている」のままでは理解できないが、そのようになっている以上、それなりの理由があるのでしょう。そうであれば、私にはこのテーマを理解することはできませんが、「あなたを」や「生きている」を他のことばに置き換えて説明すべきではないと考えます。

このテーマはおかしいか、おかしくないか

 「今、いのちがあなたを生きている」について、なぜわけがわからないかを考えてきました。宗門外の人から「このテーマはおかしい」と指摘されたとき、それに対して「このテーマはおかしくない」として、その指摘に反論することも行われてきたことと思います。
 幸い私はそのような指摘を受けたことがありませんでしたが、もし私がそのような指摘を受けたらどうしたでしょう。「このテーマはおかしくない」として、反論したかもしれません。あるいはその指摘に同意して、「このテーマはおかしいと思います。私には理解することができません」と答えたかもしれません。
 いまであれば、たとえ「それはあなたが理解できないだけだ」と言われるとしても、まちがいなく「このテーマは文法的におかしい文です。私にはなにを言おうとしているのかがわかりません」と言えます。

それでも正しい日本語だとするなら

『てにをは辞典』(三省堂)の「生きる」の項の「を」のところに、次のような用例が挙げてあります。

  一瞬一瞬を。一瞬のきらめきを。命を。運命を。同じ時を。過去を。今日を。現  実を。現代を。さし示した道を。春秋を。自分自身を。生活を。戦後を。戦時を。  戦前を。長い時間を。年月を。年数を。半世紀を。日々を。平時を。別の人生を。  毎日を。未来を。虚しい生を。役割を。隷属を。老後を。

 この中で次の「一瞬一瞬を。同じ時を。過去を。今日を。現代を。春秋を。戦後を。戦時を。戦前を。長い時間を。年月を。年数を。半世紀を。日々を。平時を。毎日を。未来を。老後を。」は「時」に関すること、副詞と考えられるので、省きますと、「一瞬のきらめきを。命を。運命を。現実を。さし示した道を。自分自身を。生活を。別の人生を。虚しい生を。役割を。隷属を。」が残ります。その中で、「一瞬のきらめきを。現実を。さし示した道を。虚しい生を。隷属を。」は、特に主語以外のこととは考えにくいので省くと、「運命を。命を。自分自身を。生活を。別の人生を。役割を。」が残ります。
 これらの残ったことばについては、主語に属する以外のものでは日本語として理解し難いものになります。それぞれについて、「私はあなたの運命を生きる」「私はあなたの命を生きる」「私はあなたの自分自身を生きる」「私はあなたの生活を生きる」「私はあなたの別の人生を生きる」「私はあなたの役割を生きる」とすれば、日本語としておかしく感じます。
 そこで、「生きる」という自動詞に「を」という助詞を用いる場合は、主語以外の事柄を持ってくればおかしくなると考えられます。
 したがって、「今、いのちがあなたを生きている」について、「あなたを」ということばが用いられているからには、「いのち」は「あなたのいのち」であるべきだと考えます。そうすると、「今、いのちがあなたを生きている」は、「今、あなたのいのちがあなたを生きている」となります。
 これであれば、それでもかなりおかしいとは思いますが、日本語として理解することができます。だとすると、「いのち」はだれのものかという問題が起こってきます。

テーマがわからないと言っていたら

 私が「「今、いのちがあなたを生きている」がわからない」と言っていたら、ある人が「外国人の話す日本語は文法的には正しくなくてもわかる。文法的に正しくなくても意味はわかるのではないか」と反論してきました。
 そこでそのことについて考えてみました。外国人の話す日本語が文法的に正しくなくてもわかるのは、話しているのは外国人であること、そして文法的に正しくないことばを話すことがあることをあらかじめわかっているから、聞くほうが正しい日本語に直して意味をとっていこうとするからなのです。またそれでもわからないときは、おおむね相手が目の前にいるので、聞き返すこともできるからなのではないでしょうか。
 「今、いのちがあなたを生きている」が英訳されています。ある人に聞いてみたら、「英語として文法的に正しいそうだ」と言っていましたが、そのことに納得できませんでした。そこでテーマの英訳を英語に堪能な人に見せて、「日本語に訳して」と言ったら、すぐに答えが返ってこなくてしばらく考えていたので、「今、いのちがあなたを生きている」を英訳したものだと言うと「英語の文法的におかしいので、どう訳せばいいのか思案していた」という答えが返ってきました。
 つまりテーマの英訳は、日本語をそのまま英語に翻訳したので、英語でも文法的に正しくないものになってしまったのです。まさに外国人の話す英語です。だからテーマの英訳を見た外国人は、無下にまちがいを指摘するのではなく、なんとかしてその意味をくみ取ろうとするでしょう。日本人が訳した英語だからです。
 しかし母国語の場合、日本人が話す日本語の場合は別です。文法的に正しくないという前提には立ちません。読んでわからない場合は、この文章は意味がわからないと切り捨てるだけです。そうされないためには、すくなくとも文法的に正しい文であるべきです。
 読み手に過大な負担を期待するのはむしがよすぎはしないでしょうか。

わかればいいのか

 そして「わかればいいのか」とも言っていました。
 わかればいいとか、わからなくてもいいとかではなく、まず日本語として正しくなければ物事は始まらないのではないでしょうか。またわかることが前提にならなければ、伝えたいことが伝わらないのではないかと思います。日本語として正しくて、そのあとに意味がわかるとかわからないとかが問題になるのではないでしょうか。
 また「あまりわかりすぎると、読んだときに何も残らず、通りすぎてしまうだけだ。わからないほうが伝わることもある」とも言っていました。
 たしかにわからない文のほうが、ひっかかりがあるために、この文はいったい何を言おうとしているのだろうかと考える人がいるでしょう。しかしそう考える人はそんなに多くはいないのではないでしょうか。そしてすこし考えて、それでもわからなければ、考えるのをやめてしまうのではないでしょうか。
 「わからないほうが伝わることもある」と言えないこともありません。そういう場合もあるでしょう。でも、それが伝わる人はごくごく少数ではないでしょうか。不特定多数に対して発信する場合は、わからないよりもわかるほうが伝わることが多いように思うのですが、いかがでしょうか。

「ばらばらでいっしょ」

 「「今、いのちがあなたを生きている」がわからない、わからないというけれども、「ばらばらでいっしょ」のほうがもっとわからないではないか」と言われました。
 そこで「ばらばらでいっしょ」をすこし考えてみることにします。
 「ばらばら」と「いっしょ」はことばだけを考えると、正反対のことを意味します。だから「ばらばらでいっしょ」というのは矛盾しているといえます。
 ドラえもんというアニメがあります。映画もたくさん出ています。その映画の中に使われている曲の中に「まる顔のうた」があります。
 「ばらばらでいっしょ」と言われたときに、この歌が浮かんできました。顔そのものを比べるとばらばらだけれども、笑ってごらんなさい。みんなみんないっしょのまる顔になるでしょう。そう言っているのです。
 また先日ある御門徒のかたが自坊で法事を勤められました。法事の読経が済んだあとで質問がありました。「そこにかかっている額は御住職が書かれたものですか。それにはどういう意味があるのですか」と。
 本堂にかけてあるその額には丸と三角と四角が書かれていました。蓮如上人の四百五十回御遠忌のころに求めたものでした。
 「私が書いたものではありません。どなたが書かれたのか覚えていませんが、「○△□のうた」という歌がありまして、それを書いたものです」と答えておきました。そしてその歌が載っている『仏教讃歌』をお見せして、「「ばらばらでいっしょ」という意味なのです」と、すこしお話をしました。
 人はそれぞれ顔も姿も、声も言葉も、夢も心もちがうけど、誰もが今を生きていることはいっしょなのです。

あなたはかけがえのない人だから

 お釈迦さまは、母親の右脇から生まれると、すぐに七歩歩いて、天と地を指さし、「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられています。
 『無量寿経』には「吾当に世において無上尊となるべし」と書かれてあります。
 この「無上尊」は、仏のことです。弥陀の三十七号の一でもあります。
 『無量寿経』はお釈迦さまが亡くなって後にできたお経ですから、お釈迦さまが自ら覚りを開くであろうと言ったとなっていますが、現実には生まれてすぐに歩くことはないでしょうし、「吾当に世において無上尊となるべし」と言うことはないと思われます。
 これは、お釈迦さまがやがて覚りを開くということを表していると考えたほうがいいでしょう。
 一般にはお釈迦さまが言ったのは「無上尊」よりも、「天上天下唯我独尊」のほうが有名です。
 これについて『岩波仏教辞典』第二版には、
 「世間において私が最も勝れたものであるの意。生れたばかりの釈尊が七歩歩いて右手をあげ、この句を述べたと伝えられている。元来は過去七仏の第一である毘婆尸仏(びばしぶつ)が誕生した時、同趣旨の偈(げ)を説いたとされていたが、やがて釈尊が誕生した時、他の人々がそう称讃したという説が生じ、さらには釈尊自身が自ら唱えたと信じられるに至った。」
とあります。
 また「唯我独尊は、のちに、ひとりよがりのうぬぼれという悪い意味に使われるようにもなった」とあり、『広辞苑』第六版では「世の中で自分一人だけがすぐれているとすること。ひとりよがり」と説明されています。
 もちろんここでいう「唯我独尊」は「ひとりよがり」という意味ではありません。「ただ我独りにして尊し」と読みます。すると、「ひとりよがり」とは違った意味に読むことができます。つまり我は独りであって、その独りが尊いという意味になります。
 昔私が高校二年のときクラス替えがありました。その後しばらくして、学校で同じクラスの子とすれ違って、しばらく行くと、その子と同じ顔をした子と出会ったことがありました。また同じクラスの別の子がよく似た顔の子と二人でいるところを見ることがありました。
 それはどういうことかというと、同じ学年に二組の双子がいて、その二組の双子の一人ずつが同じクラスになっていたのです。それを知らずにいた私は、最初はなにがなんだかわかりませんでした。
 テレビに出ている双子は、区別は付きませんが、同学年の双子は、しばらくすると別々に出会っても区別がつくようになりました。
 一卵性の双子の場合、非常によく似ているので、区別はつきにくいのですが、本人たちはそれぞれ違う点を指摘して、同じだとは言わないようです。
 人間に限らず、いかなるものもまったく同じものは、この世に存在しないのです。非常によく似たもの、すべての点においてそっくりなものはありますが、別々に存在している以上、同じものとはいえません。
 すこし前にはやった歌に、ナンバー・ワンにならなくてもいい、あなたはオンリー・ワンなのだからというのがあったと思いますが、この世に一つとして同じものがないということは、すべてのものがオンリー・ワンだということです。
 また二、三年前のことですが、「一位じゃないとだめなのですか。二位ではだめなのですか」とテレビで言っていた人がいましたが、能力や技能を競う場合、一位にならなければ意味がないのです。オリンピックや世界選手権では、同じメダルを取るにしても、やはり金のほうが価値が高いのでしょう。世間の評価としては一位でないと意味がないのです。
 テレビのドラマで次のようなことを言っていました。「自分はこの職場になくてはならないと思っていたが、辞めるといったらだれも辞めるなといってくれなかった」。
 これは、職場に限らず役目としての人の替わりはいくらでもあるということです。父の替わり、母の替わり、子どもの替わり、夫の替わり、妻の替わり等々です。
 しかし私にとって私の替わりはありません。だれかが私にとって替わるということは、私がいなくなってしまうということでしょう。
 京都市バスの後ろに「同じです あなたとわたしの 大切さ」と書いてあります。
 私にとって私がかけがえのない人であるのと同じく、あなたにとってあなたはかけがえのない人なのです。

終わりに

 なおこのテーマで問題にされているものの一つは「いのち」です。仏教学や真宗学では「いのち」はどう説明されるのか、私たちはどう理解すべきか、そして一般の理解とどう違うのかなど、多くの先生が学問的な立場での見解等を述べておられます。それらについてはいろいろ本が出版されていますので、それらをお読みいただければと思います。

あとがき

 三年前に『何のために法事をするのか』という本を出しました。それを読んだかたから法話の依頼がありました。そこで御遠忌テーマがわからないという内容の法話をしました。そのあと、法話の依頼はありません。おおむね評判が悪かったのでしょう。
 この本は、その内容に加筆、訂正をしてまとめたものです。まとまりのない内容になったかもしれませんが、意のあるところをくみ取っていただければうれしく思います。