いのちの尊さが私の罪業を深くする

   いのちの尊さが私の罪業を深くする

 「今、いのちがあなたを生きている」は、このままでは日本語として意味がわかりません。『てにをは辞典』(三省堂)を見ると、「生きる」の項の「を」の例として、「命を」「自分自身を」「別の人生を」などが挙がっています。ほかにも例がありますが、「人間」そのものに関係すると思われるものは、この三つです。
 これら三つは、主語と別のものではないと思われます。もし主語と別のものであれば、文として意味不明のものとなります。
 そこで、「今、いのちがあなたを生きている」の「いのち」と「あなた」とが別のものでないとすれば、「今、(あなたの)いのちがあなたを生きている」となります。これであれば、無理なく日本語として意味がわるか文になります。そうすると、この御遠忌テーマは、「あなたのいのち」をもう一度考えてみてくださいと言っているのではありませんか。
 さて、『六度集経』に載っているジャータカに次のような話があります。
 三人の王子が山へ狩りに出かけた。崖があった。岩を伝って、下へ下りた。岩陰に、大きなトラがうずくまっていた。がりがりに痩せていた。
 いちばん下の王子は、そのトラが、七匹の子どものトラを抱きかかえていることに気がついた。七匹の子どものトラも、がりがりに痩せていた。命絶え絶えに見える。
「ああ、いままさに、八つの命が消えようとしているのだ。私は、とても知らぬ振りをして見ているわけにはいかない。助けてあげたい。私はいったいどうすればいいのか」
 王子は、トラのほうに向かって、走り寄った。裸になるなり、その体を飢えたトラの前に投げ出した。王子は、竹を拾って、自分の首に突き刺した。さっと生臭い血が、ほとばしり出た。
 血の臭いをかぐとトラは王子に飛びかかっていった。七匹の子どものトラも、王子の手や足に、かぶりついた。八匹のトラは、みるみるうちに、王子の体を食べ尽くしてしまった。
 おりからの夕陽を受けて、明るい崖下で、八つのトラの命は、いきいきとよみがえった。
 これは「捨身飼虎」として広く知られている話です。ジャータカとは、お釈迦さまの前世の物語です。わが身を捨てて、飢えたトラの命を救うという功徳を積むことが、お釈迦さまが悟りを開く一因になったと思われます。
 また『菩薩本縁経』には次のような話もあります。
 インドにシビ王という王さまがいた。
 シビ王は、命のあるものはその大切な命を、どこまでも守ってやらねばならないと思っていた。
 あるときはふいに一羽のハトがシビ王の懐へ飛び込んできて、言った。
「助けてください。タカに追われているのです」
 タカが言った。「そのハトは私の餌です。返してください」
 シビ王は、「いや、渡せない。私は、世の中のすべてのものの命を守ってあげたいのだ」
「じゃ、私はどうなるのです。そのハトを返してもらわねば、飢え死してしまいます。私にだけは死ねとおっしゃるのですか」
シビ王は、「ほかの肉ではいけないのか」
「生の肉しか私は食べません」
 シビ王は腰の剣を抜き放つと、いきなり自分の腕の肉を切り取ってタカに与えた。
 だが、タカは「これだけでは、まだ足りない」と言った。
 シビ王は、こんどは自分の足の肉を切り取ってタカに与えた。
 シビ王は芝生の上へばったりと倒れた。
 他の経典では、ハトとシビ王の肉を秤で比べるというのもあります。その話ではハトとシビ王の重さは同じだということになっています。命の重さは、ハトであろうとシビ王であろうと、同じだということです。
 われわれは、よく「いのち」は尊いと言います。わが身を犠牲にして他の人の命を救った人が、昨年も何人もおられました。私たちにはとてもできそうもないことです。
 「捨身飼虎」もシビ王の話も、人間の命だけが尊いと言っているのではありません。あらゆるものの「命」が区別なく等しく尊いのです。
 「おなじです あなたとわたしの たいせつさ」という標語があります。あなたとわたしのたいせつさに区別はないのです。
 私たちは、その尊いいのちをいただかずには生きていくことはできないのです。