「南無阿弥陀仏」はサンスクリットで何と言うのですか

   「南無阿弥陀仏」はサンスクリットで何と言うのですか

   弥陀は英語ではメーターですか

 「阿弥陀の弥陀は、サンスクリットのミタで、英語で言えばメーターです」と法話で話されているのを聞くことがたびたびあります。
 そこで阿弥陀仏に関することばについてすこし調べてみました。

メーター
 まず英語ではメーターですが、「メートル」とは何かについてすこし述べてみます。
 メートルは、長さの単位です。国際単位系(SI)の基本単位で、最初は赤道から北極までの大円距離の一千万分の一と定められました。一八七五年に国際メートル原器の二標線間の長さと改められ、さらに一九六〇年クリプトン八六原子から出る光の波長を基準としました。一九八三年からは、光が真空中で一秒の二億九千九百七十九万二千四百五十八分の一に伝わる行路の長さと定義されています。
 十八世紀のヨーロッパでは古代ローマから伝わった複雑な度量衡法が用いられ、しかも各国、各都市ごとに単位の大きさや名称が違っていて、非常に混乱していました。そこでフランス革命初期に成立した国民会議は一七九〇年「自然の標準に準拠し、永遠に世界で用いられる新単位系」の創造へ着手を宣言しました。そしてメートル法は、一七九九年フランスで制定されました。一八七五年メートル条約の締結により国際的度量衡制として多くの国で採用されています。
 またメートルという単位名は、ギリシア語のメトロン(尺度)に由来するものですが、ギリシア語のメトロンの語源がなにかがわかりませんので、サンスクリットの「ミタ」とどういう関係にあるかは私にはわかりません。
 以上のように「メートル」は、「量る」ということばから造られたことばではありません。「長さの単位」ですから、「量る」という意味はないと思われます。
 「ミタ」と「メートル」はまったく別のものですが、すこし似ていますので、同じものだと錯覚したのでしょうか。

阿弥陀仏はサンスクリットでどう言う
 法話で「阿弥陀仏」をサンスクリットで「アミタ」だと説明されることがよくあります。阿弥陀仏はサンスクリットでどう言うのでしょうか。
 「阿弥陀」は「アミタ」の音写で、無量と訳されます。

「ア」は否定
 「アミタ」の「ア」は否定を意味します。仏教用語で「ア」が付いていてもその「ア」はかならずしも否定を意味するとは限りません。
 たとえば「阿羅漢」ということばがあります。サンスクリットの「アルハン」の音写ですが、原型は「アルハト」です。応供、殺賊、不生の三義を阿羅漢の三義といいますが、殺賊と不生は原語に即した訳ではありません。殺賊のサンスクリットは「アリハト」で、「アリ」は「敵」、「ハト」は「殺す」という意味です。殺賊とは煩悩の賊を殺したものという意味で、最高の悟りを得たものという意味です。
 阿羅漢果の聖者は、すべてを学び尽くして、これ以上学ばなければならない法が一つも存在しないという意味で、無学または無学果といわれます。ですが、阿羅漢には無学という直接の意味はありません。あくまでも阿羅漢果から派生した意味ですので、「阿羅漢」は「無学」という意味だとするのは正しいとは言えません。
 また「阿修羅」ということばがあります。「アスラ」の音写で、非天、不端正と訳されます。不酒、不飲酒と訳することもありますが、「アスラ」の「スラ」を「スラー」(一種の酒)とみたことによる誤りであると思われます。

サンスクリットの見まちがい
 阿修羅を不酒と誤ったのとよく似た例はほかにもあります。たとえば「縁覚」もその一つです。
 「縁覚というのは、これは縁起を悟ったといいます」と講義の中で説明されました。それを聞いて、「え」と思ったので、辞書を引いてみました。
 『総合佛教大辞典』(法藏館)では、次のような説明がありました。
 ①(梵)プラティエーカ・ブッダpratyeka-buddha(各自に覚った者の意)の訳。独覚とも訳し、また鉢剌医迦仏陀、辟支仏などと音写、音略する。仏の教えによらないで自ら道を悟り、寂静な孤独を好むために、説法教化しないとされる一種の聖者。(中略)⑤なおこれを縁覚と訳すについて、大乗義章巻一七本には、十二因縁を覚るがために、また風が樹を動かす(飛花落葉)などの外縁によって覚るがために、といっているが、恐らく「縁覚」という訳は誤りであると思われる。あるいは、(梵)プラトヤヤ・ブッダpratyaya-buddhaという語形でもあらわされ、それが「縁覚」と訳されたのかもしれない。
とあります。それまでは「仏の教えによらないで自ら道を悟り」とあるように理解していましたので、「縁起を悟った」との説明は腑に落ちませんでした。この辞書の説明のとおり、「恐らく「縁覚」という訳は誤りであると思われる」というのがうなずけるのです。

「ミタ」は「量る」
 「ミタ」は「量る」という動詞「マー」の過去受動分詞です。「ミタ」であって、「ミター」ではありません。
 「アミタ」だけであれば、「無量」という意味ですが、訳語の「阿弥陀」は阿弥陀という仏を表します。阿弥陀という仏は、無量寿仏とか無量光仏といわれます。
 サンスクリットでは無量寿は「アミターユス」、無量光は「アミターバ」です。「寿」は「アーユス」、「光」は「アーバー」または「アーバ」です。「アミタ」の後ろにつくと、「「アミタ」「アーユス」」が「アミターユス」になり、「「アミタ」「アーバ」」が「アミターバ」となりますが、「アミターバー」という形も辞書等には載っています。
 「寿」が「ユス」、「光」が「バ」という説明をすることがあります。「寿」が「ユス」というのは辞書には載っていません。辞書には「バ」が「光」と載っているものもありますが、もしそうであれば「アミタバ」になり、「アミターバ」の説明がつきません。だからまちがいだといえるでしょう。
 「アミターユス」または「アミターバ(ー)」で阿弥陀仏を表しますが、「仏」を付ける場合は、「アミターユス・タターガタ」という言い方をするようです。辞書にも出ていますし、サンスクリットの『阿弥陀経』にもそう出ています。
 「アミタ・ブッダ」という言い方があるのかないのかわかりませんが、「アミタ・ブッダ」では「無量仏」となり、「無量という名の仏」「無量の仏」あるいは「仏が無量だ」という意味になるのではないかと思われます。
 「タターガタ」は、「タター」(如)と「ガタ」(去る)、または「アーガタ」(来る)が結合した語です。「タター」と「ガタ」が結合したと考えられた場合は「如去」と訳されますし、「タター」と「アーガタ」の場合は「如来」と訳されます。同じことばが如去と如来の二通りに訳されます。

「南無阿弥陀仏」をサンスクリットではどう言うのか
 かなり前から、「南無阿弥陀仏」をサンスクリットではどう言うのだろうかと思っていました。辞書を見ても出ていません。「阿弥陀仏」の項を見ると「アミターユス」と「アミターバ」しか出てきません。それらを「阿弥陀仏」と説明しているだけで、それらに「ブッダ」を付けたことばは見当たりませんでした。捜しようが足りないのかもしれません。御存じのかたがありましたら、教えてください。
 ところが、最近ある法話で「南無阿弥陀仏」をサンスクリットでは「ナマス・アミタ・ブッダハ」というと説明しているのを聞きました。「南無阿弥陀仏」をサンスクリットに戻す場合、直訳すればそうなると考えられないこともありませんが、「南無阿弥陀仏」は「私は阿弥陀仏に南無します」という文です。文である以上、サンスクリットの文法から考えてみると、それは誤りです。
 「南無阿弥陀仏」のそれぞれはサンスクリットでは、「南無」は「ナマス」、「阿弥陀」は「アミタ」、「仏」は「ブッダハ」です。「ブッダハ」は「buddha」ですから、サンスクリットをカタカナで表記すると「ブッダハ」でもいいですが、一般的には「ブッダ」でいいのではないでしょうか。
 「阿弥陀仏」については『阿弥陀経』を見るのがいいのではないかと思い、調べてみました。
 まず『阿弥陀経』の経題に「阿弥陀」ということばがありますが、サンスクリットの『阿弥陀経』にはそれは遣われていません。『阿弥陀経』の経題は「聖なる極楽荘厳と名づける大乗経」(『梵蔵漢對照佛説阿彌陀經譯註』二頁)で、サンスクリットでは「アールヤ・スカーヴァティーヴユーハ・ナーマ・マハーヤーナ・スートラム」で、『無量寿経』と同じで、区別するために呼び方が違っています。
 『阿弥陀経』の中に「阿弥陀仏」と同じ意味のことばが何か所か出てきます。それを抜き出すと次のようになります。

○其土有仏、号阿弥陀(聖典一二六)
 アミターユス(無量寿)と名づける如来・応供・正等覚者がおられて(『梵蔵漢對照佛説阿彌陀經譯註』一〇)
 アミターユル・ナーマ・タターガトールハン・サムヤクサンブッダ
○皆是阿弥陀仏(聖典一二八)
 あのアミターユス如来が(譯註二八)
 テーナ・アミターユシャー・タターガテーナ
○彼仏何故 号阿弥陀(聖典一二八)
 その如来はアミターユス(無量寿)と名づけられるのであろうか(譯註三四)
 サ・タターガトーミターユル・ナーモーチュヤテー
○故名阿弥陀(聖典一二八)
  それ故に、その如来はアミターユスと名づけられるのである(譯註三四)
  サ・タターガトーミターユル・ナーモーチュヤテー
○彼仏何故 号阿弥陀(聖典一二八)
 その如来は、アミターバ(無量光)と名づけられるのであろうか(譯註三六)
 サ・タターガトーミターボー・ナーモーチュヤテー
○是故号為阿弥陀(聖典一二八)
 そういう訳でアミターバと名づけられる(譯註三六)
 サ・タターガトーミターボー・ナーモーチュヤテー
○阿弥陀仏、成仏已来(聖典一二八)
 その如来は(譯註三四)
 タターガタスヤ
○極楽国土(聖典一二九)
 アミターユス如来の仏国に(譯註三八)
 イェーミターユシャス・タターガタスヤ・ブッダクシェートレー
○彼国(聖典一二九)
 アミターユス如来の仏国に(譯註四〇)
 アミターユシャス・タターガタスヤ・ブッダクシェートレー
○聞説阿弥陀仏(聖典一二九)
 その世尊アミターユス如来の名号を聞き(譯註四〇)
 バガヴァトーミターユシャス・タターガタスヤ・ナーマデーヤム
○阿弥陀仏(聖典一二九)
 アミターユス如来が(譯註四二)
 ソーミターユス・タターガタフ
○阿弥陀仏(聖典一二九)
 アミターユス如来の(譯註四二)
 アミターユシャス・タターガタスヤ
○讃歎阿弥陀仏(聖典一三〇)
 それを称讃するように(譯註四四)
 注 阿弥陀仏という名詞がそれという代名詞で表されている。
○有無量寿仏(聖典一三〇)
 アミターユスと名づける如来(譯註五〇)
 アミターユル・ナーマ・タターガトー
○阿弥陀仏国(聖典一三三)
 世尊アミターユス如来の仏国に(譯註六二)
 バガヴァトーミターユシャス・タターガタスヤ・ブッダクシェートレー

と出てきます。
ちなみに名まえに「アミタ」の付く仏は、無量相仏(アミタ・スカンダ・ナーマ・タターガタ)と無量幢仏(アミタ・ドゥヴァジャ・ナーマ・タターガタ)が『阿弥陀経』に出てきます。
 以上のように『阿弥陀経』には「阿弥陀仏」のことは「アミターユス・タターガタ」あるいは「アミターバ」と出ていました。訳すとそれぞれ「無量寿如来」「無量光」となります。
 これらをつなぐと、さきほどの「ナマス・アミタ・ブッダハ」または「ナマス・アミターユス・ブッダ」「ナマス・アミターユス・タターガタ」「ナマス・アミターバ」になりそうですが、「ナマス」は次の語が「ア」で始まるときは「ナモー」となり、次の「アミタ」の「ア」は「´」になり、発音しません。また「ナマス」は「為格と共に来る」とサンスクリット文法の本には出ています。
 「ナマステー」というあいさつのことばがありますが、「ナマス」と「テー」に分けられます。「ナマス」は「帰命する」という意味で、「テー」は「あなた(トゥヴァン)」の単数の為格です。
 「アミタ・ブッダ」「アミターユス・ブッダ」「アミターユス・タターガタ」「アミターバ」は為格にする必要があります。この場合「アミタ・ブッダ」は「無量仏」となるので省きます。
 サンスクリットには助詞がありませんので、名詞や形容詞などは格変化をします。主格、呼格、業格、具格、為格、従格、属格、於格の八種類です。単数、双数、複数の区別がありますので、二十四種類になります。「ナマス」の後には為格の名詞等が来ます。
 それぞれを為格にすると、「アミターユシェー・ブッダーヤ」「アミターユシェー・タターガターヤ」「アミターバーヤ」となります。
 「南無阿弥陀仏」をサンスクリットに戻すと、以下のようになると思われます。
 ナモー・ミターユシェー・ブッダーヤ 南無無量寿仏
 ナモー・ミターユシェー・タターガターヤ 南無無量寿如来
 ナモー・ミターバーヤ 南無無量光
 このいずれかから「南無阿弥陀仏」という音写が出てくるにはすこしばかり無理があるように私には思えますが、昔サンスクリットの文法を習ったときに使用した本に、「ナモー・ミターバーヤ」という用例がありました。「無量寿に帰命す」と訳してありましたが、「無量光に帰命す」という意味になります。「阿弥陀仏」を辞書で引くと「アミターユス」と「アミターバ」しか出てこないとさきに書きましたが、「南無阿弥陀仏」の元のことばはこの「ナモー・ミターバーヤ」なのではないかと思っています。

   サンスクリット

 本を読んでいると、仏教に関することばが出てくることがあります。もちろん法話にはたくさん出てきます。その中にサンスクリットなどをかたかなで書いたものがあります。元のことばを調べると、そこに表記されているものと違う場合がよくあります。中途半端に記憶しているのでしょうか、それともまちがいないと確信しているのでしょうか。仏教辞典を調べればまちがいは防げるのですが、その手間が惜しいのでしょうか。あるいは細かいことにまったく頓着しないのでしょうか。すこしは気にかけてもいいと思うのですが。

アショカ王かアショーカ王か
 サンスクリットでは「e」と「o」は「エ」、「オ」ではなく、「エー」、「オー」のように長音に発音します。ですから「ヨガ」ではなく「ヨーガ」ですし、「アショカ」ではなく「アショーカ」と「o」を長く伸ばして発音します。
 ですから「アショーカ王」と発音します。

パーリー語ですかパーリ語ですか
 耳で聞くと「パーリー語」と聞こえるのでしょうか、「パーリ語」を「パーリー語」と書いてあるのをよく目にします。正しくは「パーリ語」です。

「小」はヒナ、それともヒーナ
 最近は「小乗」ということばは遣わなくなりましたが、「大乗」と対比して「小乗」が遣われることがあります。そしてサンスクリットでは「ヒーナヤーナ」というべきところ、「ヒナヤーナ」と書いてあることがあります。
 乗はヤーナーではなく、ヤーナです。ですから大乗はマハーヤーナ、小乗はヒーナヤーナです。

ブッダン・サラナン・ガッチャーミーはなぜ長音なの
 三帰依を唱和するときには「ガッチャーミー」と伸ばしますが、元のことばは「ガッチャーミ」と、「ミ」は短音です。三帰依に曲が付けられて、唱和するときは「ブッダーン・サラナーン・ガッチャーミー」と部分的に伸ばすように節がなっていますが、元のことばは「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ」です。ですから歌わないときは「ミ」は伸ばさないのです。

   カースト

 「カーストというのは、英語で言ったらカラーです」と法話で言っていましたので、「カースト」を調べてみました。
 電子辞書に入っていた『ブリタニカ国際大百科辞典』には、「生来の身分をインド人自身はジャーティ(生れ)と呼んでいたが、ポルトガル人が家系、血統を意味するカスタという語をジャーティをさすのに用いたことから「カースト」という語が生れた」と、
 同じく『百科事典マイペディア』には、「ポルトガル語カスタcasta(家系、血統)が英語に借用された言葉で、インドではカースト集団をジャーティj?ti(生れ)と呼ぶ。アーリヤ人がインドに侵入し、先住民との間に身分差別をつくり出したことに由来する」と、
 同じく電子辞書に入っていた『精選版日本国語大辞典』には、「英 caste ポルトガル語の「血統」「生まれ」の意のcastaに由来」と、『広辞苑』には、「ポルトガル語で「血統」の意のcastaから」と、それぞれ出ています。
 カーストが英語のカラーだとする記述は見つかりませんでしたが、ジャーティには色という意味があります。ジャーティからカーストということばが生まれたということ、ジャーティには色という意味があることから、カースト・イコール・カラーとつながっていったと考えて、「カーストというのは、英語で言ったらカラーです」という説明になったのではないでしょうか。
 「カースト」は英語です。ですから「英語のカーストというのは、英語で言ったらカラーです」となります。この文の意味がわかりますか。私にはわかりません。

   涅槃

 「理想の境地のことを涅槃といいます。インドのことばで「ニルヴァーナ」というのですけれども、「ヴァーナ」というのは、英語で火を燃やす道具のことを「バーナー」というでしょう。あれといっしょです」と法話で言っているのを聞きました。
 そこで調べてみました。
 『大乗仏教の根本思想』(小川一乗著法藏館)には、

 藤田宏達先生は「原始仏教における涅槃」(『印度学仏教学研究』三七巻一号)という論文の中で次のように言っています。
  一般に涅槃の原義を「煩悩の火を吹き消すこと」と説明しているが、しかし実際には「吹く」という意味はなく、これをたとえば蝋燭の火を吹き消すようなイメージで解するのは不適当といわなければならない。

とあります。
 『岩波仏教辞典』第二版には、「伝統的な語義解釈」として、「古くは煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地をいう」とあります。
 「涅槃」を調べてみると、「ヴァーナ」に関しては「火を燃やす」より「吹く」ということで議論されているようです。
 したがって、英語の「バーナー」とは関係ないように思えるのですが。

お経の漢字には意味がないんです

   お経の漢字には意味がないんです

   音写

 サンスクリット語やパーリ語、その他の言語で書かれたお経を中国語に翻訳するとき、固有名詞や元のお経に遣われている単語の概念に相当する適切な中国語がないことがあります。そういう場合は、元の単語の音をそのまま中国語の漢字の音で表すために漢字の意味を無視して新しい単語を作り出すことがあります。そのことを音写といいます。音訳ともいい、単語の全部または一部を音で表します。たとえばお経によく出てきますが、「舎利弗」のサンスクリットは「シャーリプトラ」です。お経によっては「舎利子」と出てきますが、その場合「シャーリ」を「舎利」と音写し、サンスクリット語の「プトラ」は「子」という意味ですので、「子」と訳して、「舎利子」と表しています。「舎利弗」と「舎利子」は元の単語は同じですが、訳し方によって違っています。
 日本語の場合、かたかなで外国語を表していますが、中国語にはかたかながないので、漢字の音をかたかなのようにして使っていると考えてください。
 音写された単語は、どういう漢字が遣われていても、漢字の意味は元の単語とは関係がありません。ですから漢字の意味から単語の意味を考えても元の単語とは結び付きません。日本語に当て字というものがありますが、当て字の漢字からは何も出てこないのと同じです。
 たとえば「めでたい」ということばに「目出度い」とか「芽出度い」という字を当てることがありますが、「目」または「芽」が「出る」という意味でないことはほとんどの人がわかっていることですが、中には「目が出る」という意味にとって、それで話を展開していく人があります。その結果、その話はまったく根拠のないものとなってしまいます。
 また「お年玉」ということばがあります。「お年玉」の「玉」は、「賜る」の「たま」の当て字ですが、漢字の「玉」と解釈していろいろ説明している場合があります。辞書を見れば、「玉」は当て字だということがわかるはずです。
 『字解きで学ぶ仏教語』という本がありますが、その中で「佛」と「僧」の字解きをしています。著者は音写語であることは百も承知しながら、あえて字解きをするとこうなると説明をしていますが、こじつけ以外の何ものでもありません。
 ちなみに当て字と並んで「熟字訓」というものがあります。熟字に訓読みを施したものですが、一字一字にはない訓読みで、熟字に同じ意味の和語を当てたものです。例としては「昨日」を「きのう」、「今日」を「きょう」、「明日」を「あす」「あした」などと読ませるものです。それぞれの漢字の訓にはない読み方です。
 お経の単語を音写したことを、どう受け取ったのかわかりませんが、中国語のお経のすべては音写したものだという、まちがった主張をする人が現れました。中国語のお経は、ほとんどはサンスクリット等から翻訳されたもので、その中に音写されたことばが幾つか入っています。現代の日本語の中に横文字のことばが入っているのと同じと考えていただければいいのではないでしょうか。

   お経の漢字には意味がないんです

 公益社団法人日本速記協会から出している『日本の速記』という機関誌があります。その二〇一五年の八月号に、東京速記士会創立六十周年記念特別講演会で講演した作家の辻原登氏の「文化の裏に速記あり」という題の講演記録の後半部分が載っています。
 その中に気になる部分がありましたので、すこし長いですが、抜き出してみました。

片仮名はお坊さんの文字ですね。お経というのも全部漢文です。だけど、お経は漢文でも意味がないんです。
 つまり、中国の高僧たちも、インドからお釈迦様の仏典を持ってきた。あれはサンスクリットです。サンスクリットのできるお坊さんたちは、それを中国語に訳したわけじゃないんです。サンスクリットの音を漢字で表記した。だから、お経の漢字には意味はないんです。南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の漢字は、何となく意味がありそうに見えて、意味がない。音だけです。つまり、サンスクリットの音を伝えるために、やっぱり中国の人たちも漢字で音表記をするんです。
 だから、いかにもありがたそうにあの漢字を書いたりしますけれども、あれをつくった人たちは、これは何にしようか、こっちでやろうか、この字はどう生かすかとつくっているんです。
 「華厳」なんて見ると、すごくケゴンぽく見えるけれども、サンスクリットでは華厳でも何でもないんです。さっきの土地の名前もそうですけど、文字というのは人間にそういう錯覚を―錯覚がいけないんじゃなく、そういうものの積み重ねが文化というものをつくっていくわけです。
 だから、「華厳」という文字の中に何かすごい教えがありそうに見えるけど、ケゴンというサンスクリットの音だけです。しかし、その音には、お釈迦様のすごい教えが入っている。
 そういうふうに考えていくと、この文字はほとんど無意味だ、「奈良」なんて全然意味がないんだとは言わないほうがいいですね。何かあるというふうに思ったほうが、生きていて楽しい(笑)。
 お坊さんたちは中国から入ってきた漢字の仏典の読みを習うわけで、意味なんか関係ないです。鑑真和上やさまざまなお坊さんがやってきて、学んで、聖武天皇あたりからは、仏教を国教にする。つまり、国分寺を建てて、仏教の教えで国を治めようとする。お坊さんがたくさん必要だ。その養成で一番大事なのは、向こうから一番に近い偉いお坊さんを連れてきて、そういう人の権威づけで説く必要があると。
 鑑真和上は三度目でやっと日本に来ることができた。唐招提寺をつくって、そこでみんな学ぶんですけれども、お経は漢字ですが、サンスクリットです。だから、意味なんか考えんでよろしい、とにかく覚えなさいと。
 覚えるためには、当時のお坊さんたちは漢字が読めませんから、漢字で表記するわけにいかない。それで、音を聞いて、その漢字に振り仮名をつけていく。これが片仮名です。
 だから、片仮名はお坊さんのための速記。平仮名は、女性が文章を書けるように、まあ、それだけじゃないでしょうけれども、とにかく速く書けることが目的でつくられた。

 以上です。何が気になるのか、以下、順を追って検討してみます。

お経というのも全部漢文です
 「お経というのも全部漢文です。だけど、お経は漢文でも意味がないんです。
 つまり、中国の高僧たちも、インドからお釈迦様の仏典を持ってきた。あれはサンスクリットです。サンスクリットのできるお坊さんたちは、それを中国語に訳したわけじゃないんです。サンスクリットの音を漢字で表記した。だから、お経の漢字には意味はないんです。南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の漢字は、何となく意味がありそうに見えて、意味がない。音だけです。つまり、サンスクリットの音を伝えるために、やっぱり中国の人たちも漢字で音表記をするんです」と言っています。
 お経は、パーリ語、サンスクリット語、チベット語、中国語等で書かれたものがあります。いま私たちは多くは漢文で書かれたお経を用いています。
 いまではパーリ語、サンスクリット語、チベット語、中国語等から現代語訳されたお経もたくさんあります。聖典には中国語のお経を読み下したものが載っています。
 ですから「お経というのも全部漢文です」というのは、説明不足になります。

お経は漢文でも意味がない
 「お経は漢文でも意味がない」「お経の漢字には意味はない」「南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の漢字は、何となく意味がありそうに見えて、意味がない」と、お経に用いられている漢字は、漢字の意味を考えても無意味だと繰り返し述べています。
 その理由として、「サンスクリットのできるお坊さんたちは、それを中国語に訳したわけじゃないんです。サンスクリットの音を漢字で表記した」「音だけです。つまり、サンスクリットの音を伝えるために、やっぱり中国の人たちも漢字で音表記をする」ことを挙げています。
 整理していいますと、インドの仏典はサンスクリットで書かれている。それを中国へ持ち帰ってきた。そしてそれを中国語に翻訳したわけではない。サンスクリットをそのまま音だけ漢字を用いて表したので、漢字で表記されていても、漢字の意味とは無関係だという意味に受け取れます。
 そして「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の二つを例として挙げています。

インドのサンスクリットで書かれたお経を中国語に翻訳したわけではない
 まず「インドのサンスクリットで書かれたお経を中国語に翻訳したわけではない」ということについて、『日本国語大辞典』で「片仮名」を引いてみると、「平安初期に、南都の仏教の学僧たちの間で、経文に訓点を加えるために万葉がなを簡略化して用いたところに発すると考えられている」とあります。もしお経がサンスクリットの音を漢字で表したものであれば、訓点を加える必要も、また訓点を加えてもお経を読むことはできないのではないでしょうか。

南無妙法蓮華経
 「南無阿弥陀仏」についてはすでに詳しく述べたところですので、それを参照していただくとして、「南無妙法蓮華経」については、「南無」はサンスクリットの「ナマス」を漢字に当てたものです。「妙法蓮華経」については、「妙法」と「蓮華」と「経」に分けることができます。「妙法」は、サンスクリットの「サッダルマ」、「蓮華」は同じく「プンダリーカ」、「経」は「スートラ」の訳語です。サッダルマ・プンダリーカ・スートラの音写は、薩達摩奔荼利迦素胆攬です。
 ですから「南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の漢字は、何となく意味がありそうに見えて、意味がない。音だけです」という主張は根拠のないものと言えます。
 「だから、いかにもありがたそうにあの漢字を書いたりしますけれども、あれをつくった人たちは、これは何にしようか、こっちでやろうか、この字はどう生かすかとつくっているんです」というのも意味のない主張です。

サンスクリットでは華厳でも何でもないんです
 「「華厳」なんて見ると、すごくケゴンぽく見えるけれども、サンスクリットでは華厳でも何でもないんです」と言っていますが、「ケゴンぽい」とはどういう意味なのでしょうか。また「サンスクリットでは華厳でも何でもない」という意味も説明がないので理解不能です。
 「文字というのは人間にそういう錯覚を―錯覚がいけないんじゃなく、そういうものの積み重ねが文化というものをつくっていくわけです」というのは、理解できませんが、「文字というのは人間にそういう錯覚を与えて、その錯覚の積み重ねが文化というものをつくっていく」というのでしょうか。そうであれば錯覚の積み重ねによってできた文化とはどれほどの価値があるのでしょうか。
 「だから、「華厳」という文字の中に何かすごい教えがありそうに見えるけど、ケゴンというサンスクリットの音だけです。しかし、その音には、お釈迦様のすごい教えが入っている」といっていますが、「華厳」という文字の中はケゴンというサンスクリットの音だけで、すごい教えはないが、その音の中にお釈迦様のすごい教えが入っている。文字には意味がないが、音には意味があると言っているのでしょうか。
 この主張の中でのまちがいは、「華厳」というのはサンスクリットのケゴンの音だけを漢字で表したものだという錯覚にあります。根拠がまちがっていると、結論が正しいとは限りません。「華厳」はサンスクリットの音を漢字で表したものではありません。読んで字のごとく「華かざり」、荘厳という意味です。「ケゴン」というサンスクリットのことばはありません。もしあったとしても、サンスクリットでは「ケゴン」とは発音しません。
 『華厳経』のサンスクリット名はブッダーヴァタムサカ・ナーマ・マハー・ヴァーイプルヤ・スートラです。訳して「仏の華飾りと名づけられる広大な経」です。「ブッダーヴァタムサカ」が「仏の華飾り」という意味で、「仏の華厳」です。

この文字はほとんど無意味だ
 「そういうふうに考えていくと、この文字はほとんど無意味だ、「奈良」なんて全然意味がないんだとは言わないほうがいいですね。何かあるというふうに思ったほうが、生きていて楽しい(笑)」と言っていますが、「そういうふうに考えて」きたことに問題があるのでしょう。「文字はほとんど無意味だ」というのは文字の持っている意味がそのことばに使われているのではなく、文字の持っている音が使われているから、文字の意味を考えてことばを理解しようとしても無意味だということでしょう。そのことを「何かあるというふうに思ったほうが、生きていて楽しい」と言っています。
 何かあるというふうに思う思わないにかかわらず、漢字の音を用いて表されたことばには意味があります。意味があるから、漢字の音を用いて表されたのです。
仏典の意味なんか関係ない
 「お坊さんたちは中国から入ってきた漢字の仏典の読みを習うわけで、意味なんか関係ないです」と言っています。お坊さんたちは漢字の仏典の読み、声に出して読む読み方を習います。同時にその仏典に書かれている内容も勉強します。仏典の意味なんか関係ないのではなく、読み方も重要ですし、意味も同じく重要です。
 「そこでみんな学ぶんですけれども、お経は漢字ですが、サンスクリットです。だから、意味なんか考えんでよろしい、とにかく覚えなさいと」お坊さんたちに教えていると言っています。
 漢字で書いてあるお経は、もとはサンスクリットであったものでしょう。パーリ語のもあれば、チベット語のもありますが、いちおうサンスクリットだとするとしても、だから意味なんか考えずに、とにかく覚えなさいと教えていたというのは、明らかにまちがいです。

当時のお坊さんたちは漢字が読めませんから、漢字で表記するわけにいかない
 「覚えるためには、当時のお坊さんたちは漢字が読めませんから、漢字で表記するわけにいかない。それで、音を聞いて、その漢字に振り仮名をつけていく。これが片仮名です」というのは、正しいでしょうか。
 「当時のお坊さんたちは漢字が読めません」でしたでしょうか。そんなことは考えられません。
 「音を聞いて、その漢字に振り仮名をつけていく。これが片仮名です」と言っていますが、さきに述べたように片仮名は漢文に訓点を加えて読むためにできたものであり、漢字が読めないから片仮名で読みを書いていったものではないでしょう。

片仮名はお坊さんのための速記
 「だから、片仮名はお坊さんのための速記。平仮名は、女性が文章を書けるように、まあ、それだけじゃないでしょうけれども、とにかく速く書けることが目的でつくられた」と言っています。
 「片仮名はお坊さんのための速記」とありますが、もしそうであれば、いまの速記は必要なかったのではないでしょうか。これは、講演会を主催した人たちへのリップ・サービスでしょうか。片仮名でも平仮名でもいくら速く書いても速記ではありません。それにしてもあまりにも速記ということを知らない人の発言です。平仮名は「とにかく速く書けることが目的でつくられた」と言っていますが、これも疑わしく思えてきます。

サンスクリットと漢字
 ここで、お経についてサンスクリットと漢字の関係について説明しておきます。
 インドあるいはチベット等に玄奘三蔵を代表とする三蔵法師が命懸けで経典を求めました。そしてサンスクリット等の経典を手に入れ、中国に持ち帰って中国語に翻訳しました。サンスクリットの発音を漢字の音でそのまま写したのではありません。あくまでもサンスクリットを中国語に翻訳したのです。
 何年にもわたって、また人が替わって翻訳されたために、同じ単語を違うことばで訳した例がたくさんあります。古いものを旧訳、新しいものを新訳と言っていますが、サットヴァの訳語として有情と衆生とがあります。
 ただ一部のことばについては、サンスクリットの発音を漢字の音で表すことがあります。それは音写と言います。ナマスを南無、アミタを阿弥陀、ブッダを仏陀、ダーナを檀那などです。ただしサンスクリットの場合もありますが、パーリ語から音写されたことばもたくさんあります。
 この音写を誤解して、お経はサンスクリットで、漢文には意味がないと主張しているとしたら、それはたいへんなまちがいです。本屋へ行って、たとえば『般若心経』に関する本ならすぐにいくらでも手に入れることができます。それを読めば、サンスクリットから中国語へ翻訳したものだということはすぐにわかると思いますが。

参考文献(順不同)
『総合佛教大辞典』(法藏館)
『ブリタニカ国際大百科辞典』電子辞書
『百科事典マイペディア』電子辞書
『精選版日本国語大辞典』電子辞書
『広辞苑』(岩波書店)
『大乗仏教の根本思想』(小川一乗著法藏館)
『岩波仏教辞典』第二版(岩波書店)
『日本の速記』公益社団法人日本速記協会
『日本国語大辞典』(小学館)
『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(本願寺出版社二〇〇二年十二月二十日第九刷発行)
『現代語訳大無量寿経躍動するいのちを生きよ』(高松信英著法藏館二〇〇四年六月二〇日初版第四刷発行)
『ブッダ入門』(中村元著春秋社二〇一一年四月八日新装版第二刷発行)
『痛快! 寂聴仏教塾』(集英社インターナショナル)
『お誕生おめでとう生まれてくれてありがとう』(真城義麿著東本願寺出版部伝道ブックス66)
『父を偲んで』(横超慧日著)
『字通』(白川静著平凡社)
『常用字解[第二版]』(白川静著平凡社)
『明鏡国語辞典』(大修館書店)
『大辞林』(三省堂)
『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
『てにをは辞典』(三省堂)
『梵藏漢對照佛説阿彌陀經譯註』(北畠利親編著永田文昌堂)
『漢訳対照梵和大辞典新訂版』(山喜房佛書林)
『梵英辞典』(V・S・アプテ編〔改訂増補版〕臨川書店)
『解説梵語學』(榊亮三郎著)
『サンスクリット文法綱要』(岩本裕著山喜房佛書林)
『サンスクリット文法』(辻直四郎著岩波全書)
文化時報

   あとがき

 ある新聞に「法話は単に“良い話”ではない。(中略)十年後には法話が単なる説明になってしまうのではないかという危機感もある。(中略)昔に“説教”から“法話”になってしまった」とありました。
 それによると、説教が法話になり、十年後には単なる説明になるのではないかということです。時代とともに話をする側も聞く側も変わっていくので、そのような変化が起こってもなんの不思議もありません。
 ただ十年後単なる説明になってしまうにしても、いまの法話の一部に、まちがいだと思われる説明が継承されています。またわかりやすいことばを遣ってはいても、意味がわからないこともあります。
 説教か法話か説明か、いずれであっても、法話の内容は、確かな辞書などで調べて、わかりやすいことばで話をすることが必要なのではないでしょうか。
 法話を聞いていると、仏教用語の説明が出てきます。その中でサンスクリットではどうなのかという説明があります。念のため仏教辞典などで調べてみると、たまに違っていることがあります。そしてそれは何人もの人が同じように説明していることがあります。
 漢字の説明、字解もよく出てきますが、一般に言われていることを調べると、辞書ではまったく違う説明をされていることが多くあります。
 いくつか気になることを取り上げましたが、おかしいと感じることはそれぞれの人によって違います。なぜなら、人は生まれた時が違います。育った土地も違います。それぞれの親も違います。そういった違った環境や条件の下で育ち、ことばや感性が身に着いていきます。それらがその人となります。そしてその人の常識となっていきます。
 他の人も同じように違った感性や常識を持っています。そしてその違った常識を持った人が、書いたり、話したりすることを聞くと、自分のそれと違うことに気づきます。
 ここに挙げたものは、あくまでも私が気になったことで、ほかの人はまったく気にならないことかもしれません。
 漢字を調べていて、一つの漢字に正反対の意味が含まれていることがあります。現在ではそのどちらかの意味で遣っていても、以前は反対の意味でも遣われていたことを知り、そういう意味もあったのかとあらためて思い知らされました。
 また漢字一字一字の意味を調べても、熟語になったときには別の意味になることもあり、ことばはなかなか難しいものだとも思いました。
 以前からですが、法話を聞いたり、書かれたものを読んでいると、むなしい思いがこみ上げてきます。知らないことを調べないで話したり、人から聞いたことをそのまま受け売りをしたり、自分の勝手な思い込みでことばや文字を解釈して、そのまちがいに気が付かないでいるのです。私もよくやることですが、あとから読み返したりして、冷や汗が出てくることがあります。
 いわゆる偉い先生が言ったことは、おかしいなと思ってもだれも指摘しません。無批判に受け入れてしまうのでしょうか。そしてそれが受け継がれて広まっていきます。自分の専門外のことは、それに詳しい人に確かめるとか、辞書や専門書で調べればいいのですが、その手間をかけないのです。インターネットで調べればたいがいのことは調べられます。ただし、それが正しいか、まちがっているかは、その人の判断によります。
 そんなことを思い、すこしずつ温めていたものをまとめてみました。だれも気にしない、だれも引っかからないことかもしれませんが、私はこのようなことに引っかかりました。読んでおもしろいなと思っていただければ、この上ない幸せです。