たとい一期のあいだもうす念仏なりとも、仏恩報謝の念仏とこころうべきなり。
(『御文』第五帖第十五通)


   仏恩報謝の念仏

 九十歳を過ぎた、独り暮らしのお婆さんがおられました。
 つねづね「臨終にお念仏が申せるでしょうか。もしお念仏が申せなかったらどうなるのでしょうか。それが心配です」とおっしゃっていました。
 また自分が入院したり施設に入ったりしたら、お内仏のおせわをするものがいなくなる。それが心配だからと、頑張っておられました。
 そのお婆さんが入院されたとお聞きしました。そして間もなく亡くなられたという連絡をいただきました。
 臨終にお念仏は申せたのでしょうか。
 臨終にお念仏が申せるか申せないかは、御縁によります。念仏申せる御縁があれば申せますし、申せない御縁があれば申せません。
 亡くなる間際まで意識がはっきりしていて、念仏申す余裕があれば申せるでしょうが、意識がはっきりしていないときは念仏申すことは難しいでしょう。また突然亡くなるようなときも難しいと思われます。

平生業成と臨終業成
 『御文』第一帖第二通に、「この信をえたるくらいを、『経』には「即得往生(そくとくおうじょう) 住不退転(じゅうふたいてん)」(大経)ととき、『釈』には「一念発起(いちねんほっき) 入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ)」(論註意)ともいえり。これすなわち不来迎の談、平生業成(へいぜいごうじょう)の義なり」とあります。
 ここに「平生業成」と出てきます。辞書によると、
「日常に他力の信心を得たその時に往生の業因(ごういん)が成就し、浄土に生れる身にさだまること。臨終にならないと成就しない臨終業成に対する語」
とあります。
 『歎異抄』第十四条に、「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ」という異義が出ています。これは、念仏すれば罪を滅することができると信じている人がいるということをいっています。そういう人は、念仏したあと、次に念仏するまでの罪を滅するために念仏するということを繰り返します。そして命終わるときに念仏することによって、生きている間の罪を滅して、往生しようというのです。
 しかし命終わるときに、どういう御縁に遇うかはわかりません。たまたま念仏できる御縁に出遇えれば、罪を滅することができますが、念仏できない御縁であれば、最後に念仏したあと命終わるときまでに造った罪を滅することができません。罪を滅することができなければ、罪を滅して往生するという前提が成り立たなくなります。
 つまり臨終業成を目指すのであれば、すべての人が往生できるとは言えなくなります。

決定往生の行者
 『御文』第一帖第二通に、「「本願名号信受(しんじゅ)して 寤寐(ごび)にわするることなかれ」というは、かたちはいかようなりというとも、また、つみは十悪(じゅうあく)・五逆(ごぎゃく)・謗法(ほうぼう)・闡提(せんだい)のともがらなれども、回心懺悔(えしんさんげ)して、ふかく、かかるあさましき機をすくいまします、弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念(おくねん)の心つねにして、わすれざるを、本願たのむ決定心(けつじょうしん)をえたる、信心の行人(ぎょうにん)とはいうなり」とあります。
 この「信心の行人」とは「日常に他力の信心を得たその時に往生の業因が成就し、浄土に生れる身にさだま」った人のことを言います。つまり平生業成の人のことです。
 続いて、「さてこのうえには、たとい行住座臥(ぎょうじゅうざが)に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じもうす念仏なりとおもうべきなり」とあり、「これを真実信心をえたる決定(けつじょう)往生の行者(ぎょうじゃ)とはもうすなり」とあります。
 このように『御文』には繰り返し平生業成の人の申す念仏は、仏恩報謝の念仏であると述べられています。

自力の念仏
 また『歎異抄』第十四条には、「つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり」とあるように、自らの罪を滅しようと思ってする念仏は、自力の念仏であります。そう思う人は、命終わるときに臨んで念仏が申せなければ往生できないと考えているのです。そして念仏申せるか申せないかが大問題になるのでしょう。