私の年賀状1991年

前 途 洋 々

 あけましておめでとうございます。

 年を取るということは、一つーつ断念を重ねていくことです。いよいよ私の力の微小さを思い知らされていくとともに、私の上に働いてくださっている力の大きさを知らされていくことです。そこにほんとうの人生というものにこれから会っていくという意味が「前途洋々」にはあるのではないでしょうか。

 本年もよろしくお願いします。

  平成3年元旦

 

この「前途洋々」は、宮城シズカ(ヘン:豈、ツクリ:頁)先生の研修会でお話になったものからいただきました。

 私は、「前途洋々」ということばには洋々とした迷いの前途が開けているように感じました。迷いの生に放り出された私が、いよいよ洋々たる迷いを生きていく、そのことが確かな救いの確信となっていくのではないかと感じています。



 この年賀状を出したら、翌年から年賀状が来なくなったかたがありました。

 これは宮城先生の講義で教えていただいたのですが、大阪のあるお寺の伝道掲示板に書かれていた文章だそうです。

 世の中には頭のいいかたが多くいらっしゃいます。また御自分は賢いと思っておられるかたもたくさんおいでです。

 最近思うのですが、なにであれ、人はそれぞれの分野でプロです。そしてその分野にはその分野の常識があります。またプロというのは、ノウハウを持っています。それほどたいそうに考えなくても、ちょっとした工夫があるものです。

 ところが門外漢はその分野の常識やノウハウやちょっとした工夫がわかりません。世間一般の常識でやってもうまくいくとはかぎりません。

 頭のいい素人がやっていることには、プロから見たらおかしいと思われることも多いのではないかと思ったりしています。

私の年賀状1993年

なんでも知っている馬鹿がここにいる

 無明の闇を破るとは、自己の愚かさにうなずくことである。仏法の光明を浴びるとは、なんでもわかる身になるのではなく、わからないという事実にうなずかされていくことである。

 なにも知らないとほんとうにうなずいたものは、限りなく歩んでいくが、なんでも知っているとしているものは、歩むことはない。

 本年もよろしくお願いいたします。

  1993年1月1日

私の年賀状1992年

無 縁 慈 悲

仏智不思議をうたがいて

善本徳本たのむひと

辺地懈慢にうまるれば

大慈大悲はえざりけり

 本年もよろしくお願いします。

  1992年1月1日