私の年賀状1995年

人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。

 本年もよろしくお願いいたします。

  1995年1月1日

私の年賀状1994年

この迷いの生存はこの世かぎりである。もはやふたたび生まれ変わることはないという確信が生まれた。

 本年もよろしくお願いいたします。

  1994年1月1日

 人、世間の愛欲の中にありて、ひとり生じ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来りて、行にあたり苦楽の地に至り趣く。身、自らこれをうくるに、だれも代わるものなし。と読みます。これは『無量寿経』に出てくることばです。

 たとえば、子どもや配偶者や親が病気や死などの不幸と思われる縁に出遭った人が、思わず「代わってやれるものなら代わってやりたい」と言ったりするのを聞くことがあります。

 しかし代わってやれないことはだれもが知っていることです。そして私の身もだれにも代わってもらうことはできないのです。

 私は、この時代に、この世界に、この身をもって生まれてきました。そしてやがて死んでいきます。その間私を生きるのは私独りなのです。だれかが私の代わりに私を生きていくことはできないのです。それがわかったなら、私は私を生きるしかないと思うのか、私は私を生きていこうと思うのか、どのような覚悟ができるのでしょうか。

 人生は苦であるといわれます。またこの世は迷いの世であるともいわれます。私たちは、この迷いの世に生まれたのです。そして老病死するわが身を生きています。

 仏教の教えに遇うことによって、この迷いの生存はこの世かぎりである。もはやふたたび生まれ変わることはないという確信が生まれるのです。つまり、いま私は迷いの世に生を受け、老病死するわが身を生きているが、この迷いの生存はこの世かぎりであり、命尽きれば、ふたたび迷いの世を輪廻転生することはないという確信を持つことができるのです。

私の年賀状1996年(賀状欠礼)

明法御坊の往生のこと、おどろきもうすべきにはあらねども、かえすがえすうれしうそうろう。鹿島・行方・奥郡、かようの往生ねがわせたまうひとびとの、みなの御よろこびにてそうろう。また、ひらつかの入道殿の御往生とききそうろうこそ、かえすがえす、もうすにかぎりなくおぼえそうらえ。めでたさ、もうしつくすべくもそうらわず。おのおの、いよいよみな、往生は一定とおぼしめすべし。
           (親鸞御消息)

 本年1月31日朝に母(翠)が亡くなりましたので、賀状を欠礼させていただきます。

  1995年12月

 忌明のあいさつ文の中に次のように書かせていただきました。

 母が亡くなりましたのはうっすらと雪化粧した寒い朝でした。昨晩まで元気であったのに、夜が明けたときには命が終わっておりました。人の死はいつも突然でありましょう。私の死は私自身が知ることはできません。人の死によって自分の死が教えられるのではないでしょうか。独り亡くなりました母は、私たちに「おまえも死ぬぞ」と身をもって示してくれたのではないか、そのように母の死を受け取らせていただきました。